ロング・バケーション (14)

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「やはりな。あれはお前の仕業か」
 シーツの上の手が一瞬、痙攣するように動く様子が目に入った。彼は背凭れに身体を預け、組んでいた腕をほどいて肘掛に投げ出す。
「何のつもりだったんだ?」
 今さらこんな事を知る意味など無かった。
「意識を奪って、殺そうとでも思ったか」
 だが彼は言葉を重ねる。女は微動だにしない。既に死んでいるのか、と思うほどだった。
「そもそもお前は知っているのか、この俺が何者なのかを」
「・・・・・」
「なんとか言ったらどうだ?」
 女に視線を据え、言葉を待つ。時が止まったように動かなかった女は、やがて耳の奥にしみいるような静寂のなか目を上げた。窓から差し込む夜明け前の光を、肌と髪が鈍く跳ね返している。瞳だけがそれを拒絶し、小さな闇を作り出していた。
「見せたのでは、ありません」
「―なに?」
「そのひとの欲しいものが見えます」
「――」
「驚きました。本当だとは、思いませんでしたから」
「―それは―」
「わたしには見えません。あなたは、何を見ましたか」
 この自分が欲したものだというのか。あれが、彼がこの女の中に貪り続けたものだったと―
 奴隷だ。
 奴隷が欲しがるものだ。彼は、見たくないものを見せつけられた気がして渋面を作る。
「お前がそれを知る必要はない」
 彼は女の身体の上で、隔絶された世界に放り出された。真っ白で、何もない所。感覚の全てが外界から断絶され、彼はその中で、僅かな間だが、何もかもから解き放たれ、自由になった。何度も、何度も、何度も。
 ちがう。
 渇しているのは解放にではない。圧し、克することにである。
 そうでなくて何故、縛められ、膝を折るしかないこの屈辱に耐えられよう。誇りを踏みにじられ続けるこの状況で、どうして正気が保てよう。
「わたしは―」
 女がぽつりと呟いた。
「わたしは、巫(かんなぎ)です。この瞳を持つ者は、幼い頃に召し上げられ、名を奪われて、神殿の塔の中、巫として育ちます」
 女が立ち上がる。その拍子に、肩を覆っていたローブが彼女の身体を滑り、足元に落ちた。ゆっくりと窓に歩み寄る。白い上衣の裾が床に余り、衣擦れの音を立てた。
「―――」
 その音が、彼の記憶をぼやけさせていたあの霞を払った。あの角の向こうから現れた貴人。あれは―
 母だ。
 彼は母たるひとの事をほとんど憶えていない。后たる彼女と、顔を合わせることなど滅多に無かったのだ。だが今、黒い髪を波打たせて立つ女の後姿に、漆黒の髪が流れ落ちる伸びやかな背が重なる。磨き込まれた宮殿の床を音も無く撫でる、青いマントの裾。身に纏う、貴人にしか許されないその香り。 
 いけません、王子。
 好き勝手に走り回る小さな彼を追いかけ、大きな身体で四苦八苦していた侍従の鈍重な足音。
 何て愛らしい。
 女官たちのさんざめく声。
 あいらしいとはなんだ、おれはつよいんだぞ。
 むきになって尻尾を逆立てる彼に、彼女たちは夢中になった。
 総員、出撃用意。
 臣下たちを前にした父の、重々しい声。その背で風にはためいた緋のマント。大地を吹き抜ける、赤い風の匂い。
 凱旋する父王の隣で聞いた、怒涛のような群集の歓声。王たることの何であるかを皮膚に刻んだ、遠い、遠い日。
 すべては、幼い彼の前から突然消え去った。断絶された、故郷の色、音、匂い。戻りたい、と思ったことはない。だが今は帰らざるその日々が、彼の誇りを育んだ。そして彼は未だに閉じ込められたままだ。フリーザ、という牢獄の中に。
「女の巫にはまた、通じたひとの欲するものを見せ、満たす力が備わっているのだと言われていました。巫は神と通じ、彼らの欲するところを言葉にする。だから、そんな伝説が生まれたのだろうと―」
 巫は神たちのもの。真偽を確かめられる人はいませんでした。ただの言い伝えなのだと、思っていましたけれど。
 女が振り返った。その瞳は漆黒から、青みの掛かった淡い灰色へと変化している。
「あなたが誰か、知っています。だから、近付いたのです」
 彼に奪われたのではなく。白痴なのかとさえ思った女は、最初から絡みつく意志をもって彼に組み敷かれたのだ。
 彼女はベッドと床の隙間に手を潜らせ、まるで衣類でも拾うような何気ない仕草で中振りの剣(つるぎ)を引き出した。刃が滑る高い音がして、女の手から鞘が落ちる。それが、かたん、と儚く床を打った。
「はじめから知っていました。私、役目を、果たさねば」
 うわ言のように呟きながら、女がゆらりと彼に近付く。
「今日こそは、今日こそは、って思うのです。眠っているあなたを見て、いつも―」
 たとえ眠っていようと、そんなものでこの自分を害することなど不可能だ。常なら、嘲笑していただろう。
「俺を殺して、その後どうするつもりだ」
 すぐ側らで女が握る細身の刃に目をやり、彼は静かに言った。これは件の兵士が彼女に与えたものなのだろうか、だとすればそこにどんな遣り取りがあったのだろう、とぼんやり考える。
「俺の宇宙船を使ってここを出るか?それでどこへ行く?力も財産も無い貴様がまともに生きられる場所など、この宇宙域のどこにも無いぞ。死んだ方がマシだったと思うような運命が待っているだけだ」
 フリーザの支配する、この世界にはな。彼は自分の言葉が存外穏やかに響いた事に少し驚き、そしてそれが辿り着く先の皮肉に薄い笑いを浮かべる。
「なぜなのでしょう」
 女はそれには返事をしなかった。掠れた声が、朝の空気を微かに震わせる。
「私、あなたがいなくなると思うと、身体が震えるのです」
 彼女が剣を取り落とす。研磨された金属が床を叩く高い音が、澄んだ空気を切り裂いた。自分の両肩を寒そうに抱く。細い指が、薄衣に覆われた腕に食い込んだ。
「あなたが息をしなくなって、冷たくなって、腐って―」
 がくりと床に膝をつき、両手で顔を覆う。呼吸が苦しげに早まった。
「耐えられない」
 いやいやと頭(かぶり)を振り、床の上に両手を投げ出す。
「出来ません」
 ぽた、と床に雫が落ちた。彼女の双眸から次々に零れ落ちたそれが、彼のブーツの先を濡らす。できない、できない。絞り出すように言葉を重ね、女は押し殺したような嗚咽を漏らした。整えられた爪が床を掻き毟りながら華奢な拳に納まってゆく。
 ふと顔を上げ、虚空をみつめた。濡れた頬に髪が張り付いている。ゆっくりと、瞬きをした。奇妙な沈黙が流れる。
「赦して」
 女が、彩りの無い乾いた唇をわずかに動かして呟き、さっと剣に手を伸ばした。咄嗟の事だった。反応する暇さえ無かった。彼の目に、柔らかな肉に沈んでゆく青白い刃が映った。



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