ロング・バケーション (13)

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 ぐっすりと眠る女を見下ろす。平和な様子に、彼は微かに溜息をついた。
 夜明け前の薄青い空気の中、黒々とした長い髪が白いシーツに豊かに波打ち、褐色の肌がみずみずしい艶を放っている。水に揺れるようなその姿に、彼は一瞬自分が海の中にいるような錯覚を覚えた。
 かつて女が漏らした言葉が脳裏をよぎる。海で泳ぎ、濡れて戻った彼の世話をしながら、女は言ったのだ。
 あなた、きれい。とてもうつくしい。
 およそ自分を形容するには程遠い言葉に、首を傾げたものだ。自分の何を見てそんな文句を口にしたのか。だがそれを説明出来るほどには、彼女の言葉はその頃まだなめらかではなかった。
 グローブを取り、頬に濃く長い影を落とす睫毛に触れる。柔らかに密集したそれは、しかし意外な弾力で彼の親指を撫でた。薄い光をしっとりと撥ね返す瞼を震わせ、女が目を開く。
「――」
 薄明かりの中に浮かぶ彼の姿に一瞬驚いた様子だったが、すぐに嬉しそうに相好を崩した。そのとき彼は、この女の眠る姿を目にしたのが初めてだということに気付き―常に彼の後に眠り、彼よりも早く目を覚ましていたのだ―もう少しそれを見ておくべきだったかもしれない、と何故だかふとそんな事を考えた。
 女は彼をベジータの名で呼ぶことはなかった。それがとても無礼で無作法なことに感じられるらしい。彼らには、実名以外に婉曲に相手を表現する言葉を使って互いを呼び合う習慣があったのだという。
 カーロス。
 清きもの。神職にある者が使った『王』を表す隠語で女は彼を呼んだ。あるいは単に「あなた」と。
 彼はそれを許している。彼の名には特別な意味があった。それは彼の原点とも言えるものである。女にはそれについて何も教えていなかったが、彼女なりにその彼の名を重んじているのだ。
 彼は女の名を知らない。彼が女を呼ぶ場面ではそれ以外の何者もそこには居ないのだから、知る必要がなかった。そして今朝を最後に、彼女は彼の記憶の中にだけ存在するものとなる。
「お前、名は何という」
 しかし彼は女にそう訊ねていた。
「―マーヤ」
 彼女は彼を見上げ、少し不思議そうに首をかしげた。ずっと知ろうともしなかったのに、何故今になってそんなことを訊くのだろう、と思ったのかもしれない。
「本当の名か」
「いいえ」
「本当は何という」
「―なまえは、ありません」
 祭司には、名が無いのです。女はベッドに起き上がり、小さな声でそう言った。
「意味は?」
「まぼろし」
「――」
「うみを、あらわすことばです。わたしの星では、日照りが続くと、うみが消えてしまったから。まぼろしのように」
「ではマーヤ、お前に話がある」
 彼はそう言い、小さな部屋に女が調えた赤い布張りの椅子に腰を下ろす。時間を与え、女が座り直して着衣を整えるのを待ち、彼は口を開いた。
「まずはお前の『能力』についてだ。お前は単なる伝説だと言ったが、それは間違いないのか」
 彼は腕組みして低く訊ねる。女は伏目のまま、寝台に腰掛けた姿勢で身じろぎしない。
「この宇宙には様々な惑星があり、様々な人類がいる。そして少なからざる種に、独自の進化がもたらした独自の能力が備わっている。役に立つ立たんは別にしてな」
「――」
「お前には自分と通じた男に幻覚を見せる力がある。違うか」
 それは薄暗がりの中のわずかな変化だった。だが彼はそれを見逃さなかった。女が表情を凍らせたのだ。



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