リベルタンゴ (9)

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 朝陽の様子まで、どこか普通とは違う。すべてを浄化するようなあの緊張感が、この街を照らすそれには薄いという気がした。
 南の窓から見下ろせる中規模の船着場で、船頭と思しき数人の男達が、出船準備をしながら喋り交わしている。内容といえば 「昨日客の中にふるいつきたくなるような女がいた」 だの、 「馴染みの店のコーヒーは最近味が落ちたと思わないか」 だのどうでもいいような事ばかりだったが、ロープを放り投げたり大判のデッキシートを引き寄せたりしながら喚くようにして話しているものだから、ちょっと聞くと小競合いでもしているようだった。
(変な乗り物だな)
 低く射し始めた光の中でも、異様さは失せる気配が無い。鼻先並べて停泊している幾台もの船は、首尾が天を刺すように反り上がった奇妙な形をしている。あれにはあれで何らかの合理性があるのかもしれないが、この街のあらゆるものと同様、それがどんなものだか彼には想像も付かない。近くの桟橋に、緩い風の中、白く透けた衣装をふわふわ靡かせながら、ゆっくりと移動している人物がいた。よくよく顔を確認すると、やはり白い仮面を付けている。
(・・まだ続いてるのか・・・)
 日々を生きる船頭たちの傍を、白い人は幻のように通り過ぎてゆく。その光景は、奇妙な既視感を彼に喚起した。
 夢のように不確かな今を、血塗られた激しい過去を負って生きる自分。あるいは、その過去こそが幻のような。いずれにせよ、紛れも無く彼を形作る半分でありながら、同じ時系列の上に生きる同じ男のそれだとは、我ながら思われない。
 空を斬るように、目の前を鴎(カモメ)が横切った。割合に生息域の広い鳥であるらしい、あちこちで目にする。西の都郊外でも、この鳥というには特徴的な鳴き声が、朝な夕な海辺にけたたましく響き渡っている。翼を広げると結構な大きさがある肉厚の輪郭は、夢現の稜線がはっきりしないこの水上都市が、紛れもなく彼の平和で退屈な日常に繋がっているのだという事を示す、この馬鹿げた場所でほとんど唯一のものだと言って良かった。
「ちっ」
 途端に、隣の部屋で未だぐっすり眠っている妻を強く意識し、自分の姿を晒すことにどことなく抵抗を感じて、窓枠から身体を離した。心の中を誰に覗かれる訳もないのだが―
「・・くそ」
 誰にともなく、彼はひっそり悪態を吐く。少しいらいらと眉根を寄せながら窓に背を向け、薄く瞼を下ろした。

 弦をかき鳴らす音が、少し籠って響いてくる。
(・・・チェロ?)
 あまり聴き慣れないうえ、寝惚けている。何となくそんな気がするだけだ。昨夜聴いたばかりだったから、影響されているだけなのかもしれない。
「もうー・・朝っぱらから何よ」
 シーツの襞に顔を押し付けながら、彼女は気だるく呻った―と言っても、本当のところそれが彼女の眠りを妨げた訳ではなく、にゃあにゃあと喧しい鴎こそが犯人だったのだけれども。
 ここでは土塊(つちくれ)の一握から潮と歴史が匂い立ち、石畳の小さな割れ目にまで世慣れた空気が充ちている。カンツォーネは当然、波の音や鳥の喧騒すら、準備されたエフェクトのように作用した。素晴らしい調和に感動を覚える事もあるが、まだ眠いせいもあるのだろう、今は少し鼻に付く。
(・・・ちょっといいかも)
 低く伸びのある音色は、調い過ぎの感がある早朝の空気を静かに掻き回している。演奏というよりも、ただそっと弦に触れているといった風情だ。耳慣れない不思議な旋律はどことなく哀しげで、気付くと、じっと聴き入っている自分がいた。

(こいつは・・)
 昨夜、広場の舞台で目にしたあの楽器と同じものだ。少なくとも、彼にはそう見えた。
 座面に金茶のベロアを張った小さなスツールを背に、窓の無い西側の壁に立て掛けられている。飾り物なのだろう、楽器として適した設置場所でない事は彼にも分かった。
 あの眼鏡の男は易々と扱っていたが、真傍で見ると意外なほどの大きさがある。あの男が思ったより大柄だったのか。ぬめったような艶を放つ曲線造作の下には、細い金属の脚棒が取り付けられており、それがその楽器の尻と床との間の支柱になっている。首から足元までピンと張った弦を一本試しに弾(はじ)くと、想像していたよりもずっと大きな音が出た。
(う・・)
 まずい。だが咄嗟に糸を押さえると、うまい具合に静かになる。
(ふん、なるほど)
 大体解った。彼はその首の部分を掴んで床から持ち上げ、スツールの上のボウ(弓)をつまみ上げて、朝陽の射し込む東側の窓辺に移動した。そこなら、寝室の扉から距離がある。目覚まし時計の騒音にもなかなか反応しない寝起きの悪い女が、目を覚ます心配もあるまい。彼はそれなりに、この一人の時間を楽しんでいたのだ。暫くは、邪魔されたくなかった。

(なに、隣?)
 屋外だとばかり思い込んでいたのだが、覚醒してくるにつれ、音の発生源が隣の居間であるらしい事に気付いた。彼女は完全に目を覚まし、寝台の上にのろのろと身を起こす。その際指先にヘアピースが引っ掛かり、自分が昨夜化粧も落とさず、髪も崩れ放題のままで眠ってしまった事を思い出した。さぞかし酷い様子なのだろう、と己の姿を想像し、頬をさすりながらげんなりする。寝台の足元に据え付けられた象牙色のスツールの上に、バッグの中身が散乱している。毛布の上に這い出てコンパクトを拾い上げながら、そう言えば昨夜の萌黄色のバッグは今頃人手に渡ってしまっているだろう、と思い至った。
「バカなんだから」
 あいつがイタズラするからよ。ぶつぶつと零しながらコンパクトを開き、鏡を覗き込む。だが思ったほど酷くはなかった。目の周りの隈取りが少し崩れているものの、肌などは常の朝より艶やかにさえ見える。
「さすが」
 自賛しながら、手早く整えた。下瞼に移った睫毛の色を指の縁でぼかし、崩れた髪に手櫛を入れて毛流れを作る。椅子の上のカオスからは適当なものが見つけられなかったので、乱れたシーツの端を咥えて紅の名残りを落とし、筆でごく薄く塗り直す。羽織るものを探したが、手近にある適当なものといえば、昨夕支度する際身に着けていた白いサテンのローブしか無かったので、枕の横に捏ねてあったそれに仕方なく袖を通す。運悪くそんなところにあったがために何度となく彼女の下敷きになり、大小の皺だらけだ。ルージュの花もそこここに散っている。
(珍しいわね)
 ラジオでも聴いているのだろうか。にしては、随分生々しい音だという気がするが。確かめるべく、いざベッドから降りようとしたが、昨夜履いていた靴が見当たらない。気を失っている間に失くしたのかもしれなかった。足首が固定されないミュール型のものだったから、彼が余程奇妙な形で彼女を抱き抱えたのでない限り、自然に滑り落ちてしまうだろう。
「ホントにもー・・」
 拾ってくれりゃいいじゃないのよ。口を尖らせながら、小さな赤いラグの上に足を下ろす。ベッドの足元のスツールの向こうに、昨日の昼間に使ったハイヒールが転がっていた。裸足で床に踏み出す事に軽く抵抗を覚え、つっかけようかと考えたが、ラグの長い毛足が末端に伝えるひんやりした刺激が意外に快く、裸足で扉まで歩く事にした。靴音で彼女の接近を知らせるような真似はしない方が面白い、という思いも無いではない。それはもう、癖のようなものだった。
 可能な限り静かに、ドアノブのレバーを押し下げる。両開きの重厚な扉は彼女の望みを叶え、音を立てずに程よい間隙を作ってくれた。途端、歌うようなその音が臨場感を伴って大きくなる。隙間からそっと覗き込んだが、ベジータの姿は見えない。扉の脇にある飾り棚が邪魔しているらしい。
「――」
 ならばと棚の影に滑り込み、そこから伺った室内の様子に、はっと息を飲んだ。
 ベジータが、チェロを抱いて窓辺に腰を下ろしている。



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