リベルタンゴ (2)

 1  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  Gallery  Novels Menu  Back  Next

 とまあ、状況は彼女にとってそう面白おかしいものではなかったので、まさか自分が(もっと若かりし頃ならいざ知らず)仮装などという浮かれた真似をする羽目になろうとは思いもよらなかった。
 彼女にそれを勧めたのは、お馴染みの、そして今回のビジネスの相手であるスー博士だった。ビジネス、ではあったが、彼は(彼女が思うところの『良い男』ではなかったものの)高名で才能ある科学者であったから、彼とのコンタクトはいつも、彼女にとってストレスが少なく実り多いものとなる。今回も、彼らは会見した二日半の七割を、人間の脳をコンピュータと連動させる最先端の研究の話題に費やした。
「時にセニョーラ、今宵の仮装はお決まりなのかな」
 学者達を交えた晩餐の約束を交わして席を立つ彼女に、彼が思い出したように訊ねた。
「ああ、カルナヴァーレ(カーニバル)ね。いいえ、参加する予定はありませんの」
「それは勿体無い!せっかく今日という日にこの街においでなのに」
「ええ、まあ」
「ベロニカ・フランコなどいかが。あなたの白い肌なら、コーティザンの衣装も良く映えそうだ」
 含みのある言葉に響かなくもないが、それも悪くはない。彼女は、あらゆる意味で垂涎の的である自分が大好きだった。
「まあ、素敵ね。でもドットーレ(ドクター)、私にはマルコがいないの」
 来てる予定だったんだけどね。彼女は余計な事を思い出させた罪の無い男を、流し目で睨んで溜息を吐いてみせる。
 彼女はそうしたときの自分の美しさに、べジータを通じて気付かされた。諍いの最中、黙り込んでじっと自分に見入る彼の視線の中に、怒りや苛立ちとは違う何かを感じる事がある。その時彼は息を詰めるようにして、または微かに―本当にかすかに―呼吸を乱しながら、縛めようと試みるように、あるいは囚われて身動き出来ないでいるように、彼女の瞳の奥を覗き込んでいるのだ。
「おお、それは福音だ。是非今宵の予約を入れたいものだな」
「いえ、予約なら一杯なの」
 にっこりかわしながら、こんな冗談が言えるじいさんだとは知らなかったわ、と内心舌を巻いた。純粋培養筋金入りの科学者だとばかり思っていたが、さすがは伊達男の産地、土地柄というものなのか。

 しかし結局のところ、自分はサービス精神旺盛な女なのだと彼女は思う。一人でランチを取った後、ホテルに戻って午後4時までに腕の良い美容師を寄越すようにとフロントに申し渡し、時代ものの衣装を扱う店に自ら足を運んでドレスと下着と靴と扇とウィッグを選び(仮面は必要ないと思ったので敢えて用意しなかった)、部屋に戻ってシャワーを使い、20分も遅刻してきた美容師に『その素敵なアンティーク時計はそろそろ買い換えた方が良いわ』と皮肉を浴びせ(だが本当は地毛を生かして仮装したいと思っていた彼女の目の前に、珍しい紫色のヘアピースを並べて見せた事で、この美容師はあっさりと評価を取り戻す事が出来た)、午後7時にはリクエストのあった女詩人に姿を変えて広場に降り立ったのだから。無論、せっかくの機会だ、そこに住まう大多数の人間にとっては迷惑でしかないのだろうこの大騒ぎに(だが稼ぎ時だ)便乗せねば損かもしれない、という気持ちもあったのだけれど。

「その菫(すみれ)色!我々はかつてこれほど官能的かつ神秘的なベロニカを得た事があったろうか」
 博士は彼女の装いにすっかり気を良くしてしまい、思った通りだ、なんという美しさだ、とありとあらゆる美辞を並べて彼女を褒めちぎった。
「でも私、詩は詠めないわ」
「いやいや、あなたという存在そのものが美しい詩歌だ。我々に甘美な陶酔をもたらしてくれる」
「博士は詩人なのね」
 すべてを真に受けて自惚れたりはしなかったが、自分を楽しみ、楽しませてくれる人々が周囲に居るというのは悪い気分ではない。彼女の大きく膨らんだスカートをものともせずに隣に貼り付いている若い―三十前後だろうか―男性物理学者も、そうした一人ではある。
 用心の為に早く出発したのだが、この『伝統』という一価値のみを取り上げても生半可ではない食事処は、あっけないほど簡単に見つかった。広場に面して長大なオープンテラスが張り出しているので、嫌でも目につくのだ。ディナー開始は午後8時であったから、彼女はそれからの一時間近くを周囲の散策に費やす事にしたのだが、そのほとんど初っ端で声を掛けてきたのが、この物理学者であった。
「高名な女性が、こういう場面で顔を晒して歩かれない方がいい。周りをごらんなさい、仮面の洪水だ。何者が混ざっているやら知れたものではありませんよ」
「ええそうね。でも、そもそも仮面ってその為に着けるものだわ」
「あなたは、御自分がどういう存在なのか理解しておられないんだ」
「暗殺されるとでも?」
「それは極端だが・・とかく注目を浴びておられる。誰もあなたを無視できないでしょう。そういう人は妬みの的にもなりやすい」
「まあ、そう?で、あなたも私に嫉妬する一人?」
「・・あなたの天才や財力を羨まない科学者なんているんだろうか」
 晩餐で同席する新米だ、と名乗って近付いてきたその男の顔は(他の多くの学者達と同じく仮装はしていなかった)、確かに科学雑誌で目にした事がある。その権威ある誌面にこの若さで、という事は、きっと能力のある人物なのだろう。十歩毎に観光客からカメラを向けられるのにさすがにうんざりし始めたところだったし、少し子供臭さはあるものの話は出来そうな人物だと思われたので(何より容姿が好みだったのだ)、彼女は彼に請われるまま同道を許した。
 冬用のドレスで、しかもショールを羽織ってはいたものの、日没後の冷え込みが思ったより厳しく、胸元の開いた衣装ではなかなか厳しいものがあった。そのうえ、慣れないコルセットで胴を締め上げられて身動きがままならない。という訳で、彼らは連れ立って歩き始めてものの十分で散策を打ち切る羽目になった。けれど時間より早く入店した彼らを快く迎え入れた店のスタッフと、少々緊張しながらも瞳を輝かせて話す青年のお陰で、お歴々が姿を現すまでの半時間、彼女は退屈せずに済んだのだった。

「乾杯の際にグラスをぶつけ合う意味を御存知ですか」
 そこまでは良かったのだが、このほっそりと背の高い神経質そうな男は、晩餐が始まる頃には既に呂律が怪しくなり始めていた。彼の身分的に考え、この場所には慇懃に挨拶して歩かねばならない大物が何人もいようと思うのだが、ぴったりと彼女に寄り添って離れようとしない。初めから酒に弱かったものか、人より半時間ほど早く飲み始めた結果なのか、緊張していたせいで回りが早かったのか、そのすべてなのかは分からないが―
 けれど彼女は、それがとてもまともだとは言えない振る舞いであったにもかかわらず、何故か彼を不愉快な存在だと感じる事は無かった。滑らかな白い肌。雌鹿を思わせる濃く長い睫の奥、細やかに揺れる光。額に乱れ掛かる柔らかそうな黒髪、ふっくらと艶のある唇。この青年は、他人の棘を溶かしてしまうものをふんだんに持っているのだ。
「いえ、知らないわ」
 周囲の陽気な喧騒の中、普通に会話できるのが不思議なほどだったが、彼女の耳には彼の呟くような声がよく届く。杯をぶつけ合う意味なら知らぬではないが、彼女は敢えてそう答え、顔を上げた青年の酔いに潤んだ視線を受け止めた。印象的な琥珀の瞳の中には、彼女がよく出会う、羨望、憧憬、それから点火を待つ欲望の微かな色が混在している。
「ああして混ぜ合わせるんだそうですよ、杯の中身と中身を」
「どうして?」
「毒入りじゃないのだと証明するために」
 彼は再び睫を伏せ、ふっと愛らしい笑みを浮かべた。それからおもむろに彼女の手にしている杯に自分のそれを叩きつけたのだが、酔いで加減が狂ったものか、かあん、という澄んだ音と共に彼らのグラスは大きく砕け落ちてしまった。ふくよかな香りを撒き散らしながら、パルファムよりも高価な一滴一滴が彼女のスカートに降り注ぐ。
「ああ、あー・・・ごめんなさい、こんな事するつもりじゃなかったのに・・」
 彼女は、飲み物の中にだけ仕込まれてる訳じゃないわ、という自分の言葉を引っ込めた。彼は胸ポケットの白いチーフを取り出してふらふらと跪き、彼女のスカートから懸命に水分を拭い取っている。
「いいわ、ちょうどいいフレグランスになるかもよ」
 どう、美味しそうじゃない?彼女は持っていた扇を広げ、スカートをあおいで彼にその香りを送る。すると、粗相の後始末をしていた青年がはたと手を止めて彼女を見上げ―女神を仰ぐような面持ちだった―、唐突に、夢見るようにその言葉を唇に乗せた。
「結婚して下さいませんか」



 1  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  Gallery  Novels Menu  Back  Next