リベルタンゴ (10)

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 朝陽の中、半分シルエットになってしまってよく見えないが、彼が抱えているあれは、部屋の入口付近にあったあのチェロなのだろうか。ここは有名な音楽家が一時期長く滞在した部屋だと聞いていたので、それを記念した飾り物だとばかり思っていたのだが。視線を巡らせて確認すると、果たしてそれがあった場所には、金茶のスツールだけがぽつねんと所在無げに立ちつくしていた。ベジータは、手馴れた風に軽く瞼を下ろして楽器に視線を落とし、弄ぶようにしてゆったりとボウ(弓)を舞わせている。
(うそ・・)
 楽器を扱う姿など、記憶に無かった。いつの間に奏法を体得したというのか。
 だが驚きながらも繁々観察していると、一見上手く弾きこなしているような印象を受けるのだが、実際はそうでもないらしい事が知れた。一応メロディーにはなっているようだが、弦から弦に弓が移った出だしの一瞬、躊躇するように音が弱くなる。一音ずつ、確かめたしかめしながら伸ばしているようだった。
 それに気付いてしまうと、どこか哀しげで不思議だと感じたその旋律が、ちょっと赤ん坊の喃語のようにも聞こえるのだから妙なものだった。たどたどしくも、一つひとつが新鮮で初々しい。その覚束無さに加え、彼の背後、窓間の帯壁に沿って置かれた半円形のコンソールから、黒い艶消しの大きな花器に挿した―ピーチだろうか―エキゾチックな白い花々がふんだんに枝垂れていて、可笑しさを倍増させている。まるで彼が花の滝を背負っているような構図になっており、もう肋骨を擽られているようなこそばゆさだった。彼女は唇を噛み締め、吹き出しそうになるのを懸命にこらえる。
 そのとき、濡れたような楽器の肌が強く光を撥ね返した。まともに目に受け、それが真っ白に眩む。そしてゆるゆると戻ってきた視界の中に、彼女は酷く不快な光景を見た。
 ベジータが、膝に女を抱いて愛しんでいる。
 ように見えた、のだった。彼が抱える楽器の独特の姿と強い光の反射が見せた、一瞬の錯覚である。だがそのせいで、彼女はその器が持つ褐色の肌の艶やかさに気付いてしまった。
(・・・あたしの場所よ)
 突然せり上がって来たむかつきに驚く。驚きながら、彼は彼女以外の誰にもそこを明け渡した事が無いのだという事実に、改めて思い至る。
 彼が腕の中に招き入れるのは、ブルマだけなのだった。彼らの愛息が幼かった頃ですら、おいそれと甘え掛かる事は許されなかった。膝に腰を下ろして身体を預ける事も、寛ぐ事も、時にそこで眠る事も、頬や髪に触れる事も、許されているのは彼女一人だった。
(やめて)
 なのに、彼女がずっと独占してきたその場所で、女の身体を模(かたど)ったその器は厚かましくも身体を仰け反らせ、てらてらと淫らに光りながら悦びの声を上げている。細い首筋にベジータが頬を寄せると、彼の囁きにしのび笑うかのように、小刻みに身体を震わせる。
(やめてったら!)
 かっと血が逆流し、顔が熱くなる。気付くと、影の中からよろめき出ていた。
 足裏に、床がぞっと冷たかった。

 ブルマが覗いている事など、先刻承知だった。そのうちにやにや笑いながら近寄って来て、何か下らない事でも言って彼を冷やかすのだろう。いつもの事だ。正直、もう少しこの一人遊びに興じていたかったのだが―
(来やがった)
 薄く開いた目の端で、女が動いた。棚の陰から出て来たのだろう。彼は気付かぬ風を装い、手薬煉引いて(さてどう応戦しようか)彼女の接近を待つ。
(・・?)
 だがどうしたことか、女は一向にそこから動く様子を見せなかった。不審に思って手を止め、顔を上げると、彼女は長く伸びた窓影の縁で立ちつくしている。
「何だ」
 と口を開きかけたが、思わず飲み込んだ。
 常々、自分より美しく尊いものなどこの世に存在しないのだ、とばかり自意識過剰で自信満々な女が、その白い顔に何とも名状し難い色を浮かべて彼をみつめている。腹を立てているような、途方に暮れているような、泣き出したいのを懸命に堪えているような。
 今まで出会った事の無い種類のそれを、黙ったまま睨むように見返す。そうしながら、彼は密かに狼狽していた。
 この女がこうした多面的で入り組んださまを見せるのは、別段珍しい事ではなかった。彼にとってそれらはあまりに謎めいていて、そこに溶け込んだ全てを汲み取る事は到底不可能であったが、ほとんどの場合、揶揄や愉楽の類が滲んでいる。面白い訳は無かったが、それは彼が彼女の表情から確実に読み取ることの出来るほとんど唯一のものであり、そのことで、少なくとも一部分は彼女を把握する事が出来たのだ。
 だが今は違う。これほど掴み所のない彼女を、彼は知らなかった。焼け付くように注がれる青にどう応じれば良いか見当が付かず、気付けば視線をさまよわせていた。初めての経験である。
 女は何故か、左胸を掴むようにして押さえていた。彼女の体を覆う白いローブのとろりとした陰影が、乳房に食い込んだ右手指の爪先を強調している。そのさまは、彼女の肉の、密度の高い、それでいて溶けるようなあの柔らかさを彼の指先に生々しく喚起させ、歯を立てた時の快美をその根の部分に甦らせた。それがぞくりと下腹まで走ると同時に、彼女が自らの左乳房に与えている仕打ちのせいなのだろう、己の左胸に軽い痛みを覚える。彼はどうも、常日頃自分が細心の注意を払って触れている身体を、彼女自身は少々手荒に扱い過ぎていると感じているようであった。
 半分開いたままの窓から、一陣の風が吹き込んで来る。それは彼の肌を撫で、それから彼女を通り過ぎた。
(―――)
 身体が震えた。冷気にではない。そろりと奥歯を噛み締める。悟られる訳にはいかなかった。
 床に伸びる窓影の中に、小さな花弁が白く輝き、幾枚も流れ散ってゆく。その向こう側で、磨き込まれた床が照り返す朝陽をその身に受けながら、女は静かに彼を圧倒していた。初春の少し冷たい風に、薄布一枚の他は何も身に着けていないのだろう、曲線が柔らかに彫り出される。サテンの滑らかな襞の下、腹の中心にある小さな窪みが透けた気がして、彼は微かに目を瞬かせた。
 手の中で、ボウがみしりと悲鳴を上げる。いつのまにやら握り締めていたらしい。指を緩めたが、遅かった。頼り無く細いそれは、既に中ほどから真二つに割れていた。
 気付かれただろうか。
 端同士糸で繋がったまま、指先から長々垂れ下がるボウの残骸が、風に靡いてがらがら鳴った。彼は微かに渋面を作り、その騒がしい二本の棒にじっと視線を落とす。
「不様だな」
 低く、小さく呻き、窓外に視線を移した。抱き寄せてその柔らかさを感じたいという衝動に背を向け、彼女を視界の外に追い遣る。それでも目尻にぼんやりと像を結ぶ白い姿を意識し、遠く広がる水の煌きに眉を顰めた。



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