リベルタンゴ (12)

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「―そうか」
 しばしの沈黙の後、乳房に声を少々くぐもらせたまま、男は一言そう呟いた。低く、だがどこにも拒絶を含まないその声が、息吹と共に微かな振動を彼女の皮膚に伝えたとき、自分は思っていたよりもずっと切実にそう考えていたらしい、という事に滲み入るように気付いた。
 あと一人でもいい。
 産みたい。この男の子供を。リミットは迫っているだろう。生物学的な可否はともかくとして、彼女が自然な形で身籠り、分娩し、生まれた子を彼女自身すこやかな心身状態で育て上げる最後の機会は、正に今であるかもしれない。
(どうして)
 出来ないのだろう。トランクスなどは、特に望んでいた訳ではない中で、割合短期間の内に生を享けた子だというのに。彼女は小さく身震いし、縋るように自分の腹に掌を押し当てた。
 あれはたまたま大当たりしただけで、本当は異星人同士適合性が良くないのかもしれない、と考えたりもした。だが彼と同じく、今はそのほとんどが滅び去ったエイリアンの生き残りである彼女の友人は、彼女と同じ地球の女であるその妻との間に複数の子を儲けている。若い時代の長い時間を離ればなれで過ごしたが、それでも今は二人の子の父と母だ。
「寒いのか」
 閉めればいいだろ。微かな震えを感じ取ったか、いつもの睨んでいるような顔で男が彼女を見上げ、それから窓外に視線を戻して眩しそうに眉を顰めた。早春の朝陽の祝福を受けて、運河が照り輝いている。眼下にある船着場からは、船頭たちの伸びやかな歌声が響いてきた。
「・・寒い訳じゃないわ」
「震えてる」
 陽の光に目を細めたまま彼は囁き、彼女の背にゆるりと掌を登らせた。まさか慰めているつもりはないのだろうが、絹一枚挟んで皮膚の上を移動するぬくもりが、彼女を末端まで温める。
「でも、寒くないもの」
 黒い髪に指を入れる。指の腹から掌を硬く尖った先端が掻き、少し痛いくらいだったが、それはもう彼女の皮膚感覚に無くてはならないものとして馴染み切っていた。
「ズルイ奴よ、あんた」
「・・それはどういう意味だ」
「つむじが見つかんないわ」
「つむじ?」
 頭皮とはセンシティヴな箇所であり、つむじはその中心である。
 という事を、彼女は彼と触れ合うようになってから知った。自分には無いさらささらとした感触を気に入っているのだろう、ベジータはよく―といっても周囲に他の誰も居ない時に限られるのだが―彼女の髪に触る。ソファに掛ける彼女の髪に、通りすがりに背後からすっと指を入れるのは良いとして、彼に凭れ掛かっているときなどに頭皮をぼんやりと掻き撫でたりされると、
「そこじゃないのよ」
 などと節操の無い言葉が飛び出しそうで困る。傍目には、男女の微笑ましい(あるいは辟易する)光景として映るかもしれない。だが彼の指先からは、何か媚薬の類が滲み出ているに違いないのだ。そうした何気ない動きさえ、埋み火に細く息を吹き掛けるごとく彼女をじわじわと追い上げ始める。彼自身はどういうつもりでいるのだか知らないが、爪先が頭頂に達すると、彼女はじれったさに身体をくねらせずにいられなくなる。
『じっとしてろ』
 たまらず離れようとすると、彼は大抵そう言って不機嫌そうに彼女を引き戻し、再び自分勝手にその感触を貪る。拒めば解放してくれるだろうが、もうその頃になると、彼女の方で拒絶できなくなっている。
(ちょっとおかしいのかしら、あたし)
 と最初は首を傾げたものだ。頭皮が“敏感な”部分である、という話など聞いたためしが無い。
『綺麗だよなあ、ブルマの髪は』
 だが、それはベジータが相手である場合に限られる。ヤムチャなども、昔はよくそう言って彼女の髪に触れてきた。だがそうした際の彼の指先が、彼女を妙な気分にさせるなどという事は無かった。
「・・ヘンなのはあんたなのよね」
「何?なんだと」
 不可解そうに眉を顰める男を見下ろし、上背のある人でなくて良かった、と彼女は心底胸を撫で下ろした。背の高い男であれば、彼女は常に彼に対して恥部を晒して歩いているようなものだ。
「つむじだとか変だとか、さっきから何を言ってる」
「いいの、じっとしてて」
 やられっぱなしでは悔しいので、彼女は何度も機会を得ては彼の頭頂にも「中心」を探し求めた。だが、見つけられたためしがない。特殊な髪型の男なので、元々そんなものは持ち合わせていないのかもしれなかった。
「やっぱりズルイ」
「よせ」
 口を尖らせて硬い髪を引っ張ると、男は低く唸って上目遣いに彼女を睨んだ。黒い瞳が、射し込む朝陽に透けて赤味を帯びた色に光る。彼女はその色合にはっと小さく息を呑み、それから薄く相好を崩した。
 彼の瞳の表情は、実に変化に富んでいる。
 多くの生物にとってそうであるように、それは彼の心身状態を写す鏡の役割を果たした。状態の良い時は、中心の黒が色深く澄み、周囲の白も純度を増して、縁取り鋭く鮮やかなコントラストを見せる。逆に状態の良くないような時は(近年そんな事はまれであったが)こころもち霞み、色や輝きに濁りが出る。
 最も鮮やかで如実な変化を見せるのは、むろん超化の際である。常の吸い込まれそうな闇色は、エメラルドにオパールを溶かし入れたような、どこかこの世ならぬ、神憑った翡翠色になる。全身を包む黄金に最も似つかわしく、その姿を目にしたものすべてを焼き尽くす、危険な彩り、輝き。
 だが彼女が最も興味深いと思うのは、どういう訳でそうなるのかは判らないのだが、彼がエクスタシーを迎えた際の変化であった。十中八九、本人は気付いていない。その瞬間(と前後)彼の虹彩は薄い血の色を帯び、ごくうっすらとであるが、光るのである。
 不気味だと言えば言えなくもない。だが彼女は、この人は地球人ではないのだからそういうものなのだろう、と端からすんなり受け入れてしまっていた ― と言っても彼女がこの現象に気付いたのは(本当に幸運な)偶然で、しかもそう昔のことではなかったのだけれども。ただ本人に知られてしまうと、彼の昂りの数少ない表出であるそれを、金輪際彼女に見せないようにするだろうことは容易に想像できたので、そのことについては固く口を閉ざしている。
「何笑ってやがる」
「別に」
 単なる日光の悪戯なのだろうが、その赤味掛かった色に、彼の一番無防備な瞬間が重なって見えたのだった。このしなやかで逞しい肉体の、かなしいほどの素直。それに触れると、彼女はもうどうしようもなく彼が愛しくなる。自分の身体に溶かし入れて、ずっと離したくない、と感じる。子宮の中に、彼のすべてを取り込んでしまいたくなる。そして自身の身体を通してもう一度、この人を産めたら―
「大好き」
 己が想像に酔ったか、彼女は甘苦しさを覚えて息を吸い込む。他に言葉がみつからないまま掠れた声でそう呟き、頬を刺す毛先をものともせずに、腕の中の頭を力を込めて掻き抱く。
「・・訳のわからん女だ」
 柔らかな肉の内で、男が鼻を鳴らす。相変わらず不機嫌そうな、ひどく籠ったその声に微かな含羞(はにかみ)を感じ取り、そっと覗いて確かめる。
 彼の耳朶は、ほんのり東雲(しののめ)色に染まっていた。彼の背後で揺れる桃の花弁よりも、それはもっと可憐だった。



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