リベルタンゴ (5)

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 歩くうちに零時を過ぎたが、広場の群集はむしろ先刻より膨らんでいる。
 道端に並ぶ俄造りの店舗には、とりどりのマスケラ(仮面)が所狭しと並べられていた。多くは白地に涙型や流線型の模様を施したもので、皆一様に無表情である。身分や性別、年齢から人を解き放つ、という本来の役割を果たすに最適ではあるだろう。
「それ見せて」
 露店の屋根近くに引っ掛けられていた一つを指差し、店主に指示する。白い顔にぽってりと赤い紅を差し、右眉に当たる部分に無色のラインストーンで弧が描かれているだけのシンプルな面は、そこに並んだ他のどれよりも端正で、どこか艶を感じさせた。別にあの若い学者の言った事を気にした訳ではない、ちょっと着けてみたくなっただけだ。あとは土産の一つにでもすればいい。
「あれは売り物じゃない」
 だが店主もそれを気に入っていたのだろう、そう言って随分と売り渋っていたが、言い値で買おうという彼女の申し出に、やっとの事で首を縦に振った。それから、これは名人の作った由緒ある代物で、とか何とかさんざん薀蓄を並べ立てて他の十倍ほどの値を吹っ掛けて来たが、彼女は眉を上げて口の端でちょっと笑っただけで、萌黄に金糸で刺繍を施した小さなバッグから折り畳んだ札を数枚取り出し、露店台の薄汚れた緋布の上に黙って置いた。
「グラチェ、セニョーラ!これであんたが主役だ」
 店主は満面の笑みを浮かべ、コートの袖口でそのつるりとした面をさっと拭いながら彼女の背後に回る。小さな顔にぴたりとそれを装着させると、肩まで垂れ下がったヘアピースの隙間を縫って頭の後ろで器用に細紐を結んだ。どんな世界にもプロはいる。その素早さ、無駄の無さ、強弱ほど良い装着感、どれをとってもさすがに面屋の主人だというだけの事はあった。その鮮やかさと言ったら、先程の御託もあながち嘘ではないかもしれない、とちらりとでも彼女に思わせた程で。
(すごい)
 振り返ってアーモンド状の穴から覗くと、かつて『欧州で最も美しい』と評された広場が、先程までよりも一層現実離れした、見知らぬ世界として目の前に広がっていた。だがそれも頷ける話だ、薄く小さな仮面の下にすべてを包み隠し、彼女こそが己も知らぬ誰かとしてこの場所に漂っているのだから。慣れない衣装に胴を締め上げられているというのに、この開放感はどうだ。人波に乗ってしまうと、彼女はこの時期にだけこの街に現れる幻想の一部になった。知らぬうちに(あるいは意識して)我から箍を嵌めている自分という枠から解き放たれ、ただ一人の『仮面の女』となる。
 でありながら、彼女は実に多くの視線を集めた。目立つ事はそれなりに好きだ。というより自分の事が大好きなので、愛すべき己という存在が衆目を集める事が快い。彼女は、今は天才科学者でもなければ何万人もが従事する大企業の重役でもなく、世界屈指のセレブリティでもなかった。視線や溜息、囁きや微かな口笛、情熱的なカメラレンズやシャッター音は間違いなく、黒く芳しい空気に浮き上がるデコルテの白さであるとか、豊麗な肉体のラインであるとか、紫の髪の艶であるとか、美的センスであるとかいった生身の彼女自身に向けられているものだ。多くが、やがて老いによって失われる事は避けられないのであろう。けれど仮面の下、外から窺い知れぬ奥深い部分にそれ以上の価値を押し隠している。だからこそ彼女は、命あるその輝きを大切にしたいと思っていたし、それらが失せてしまった後でも、きっとずっと自分が好きでいられるという確信があった。
(・・でもちょっとね)
 とはいうものの、若い時代が長い男の傍で己だけが老いている場面を想像すると、やはり少々気分が鬱屈してしまう事は否めないのだ。
 その事に気付いたのは、古い話では無かった。あるとき彼の、『歳より若い』と言うだけでは無理のあろう瑞々しい皮膚に触れていて、老化速度の相違という可能性に思い至ったのだ。恐る恐る確認してみると、彼も気付いていたようで、寿命そのものにはさほど違いはないかもしれないが、(地球人との比較の問題だが)彼の種族の特性としてそういうことがあるのだろうという答えが返ってきた。地球人とどの程度差がつくのだかは分からないが―彼本人も老いたサイヤ人と接触した経験がなかったらしく、参考になる見解は得られなかった―、せめて外見だけでも釣り合いが取れるように己を保ちたい、という気持ちはある。おそらく、世の女達が若さに固執し続ける程度には。
(あー、やだ)
 気を取り直し、僅かに俯き掛けた頭をぐいと持ち上げた。考えても仕方の無いことだ。人事を尽くし、後はなるようになるしかあるまい。どうしても不都合がある、あるいは我慢できない場合には、龍球という最終兵器だってあるではないか。正直言えば一緒に、老いる互いを大切に生きてみたいと思うのだが―何より、自分にも彼にもそうした才能があるに違いない、と彼女は思っていたのだが。
 緩みかけた歩を早めたとき、背後で俄かに拍手が沸き起こった。何事だろうと振り返ると、ちょうどすぐそこ、広場の中央に鎮座する特設ステージに、黒スーツの一団が姿を現すところである。バンドネオンにギター、ベースに続き、チェロを抱えた男が登場すると、周囲は一層大きく沸き返った。優しい形の眼鏡を着けたそのチェリストは、愛想良い笑いを惜しみなく振り撒き、手を振って歓声に応えている。眼鏡だけではない、ふんわりと弧を描く鼻先や卵のような輪郭、ライトの下でつやつやと血色良く黄味掛かった肌からは、鋭さというものがまるで感じられなかった。
(変な男)
 観衆の興奮から、さぞ名のある人物なのだろうという事が窺い知れたが、にこにこ、というよりにやにやと目尻を下げたその表情は、彼女の抱く『音楽家』のイメージからはかけ離れている。だがそれだけに、一体どんな演奏をするのだろうと興味が湧いた。仮設の観客席を取り巻く人垣の合間を縫い、ステージに近付く。仮装のお陰なのかどうか周囲の紳士的な扱いを受け、彼女は拍子抜けするほどすんなりと最前列に辿り着く事が出来た。
 ところが演奏が始まると、件のチェリストの表情は一変したのである。険しくなったのではない、むしろ逆だ。緩く下りた瞼から覗く黒い瞳は、既に観客席の存在を忘れている。いや忘れているというよりも、一体化してしまったと言ったほうが良いだろうか。水上都市であるこの街の湿度は年間を通して高く、音の伸びを考えるに良い条件が整っているとは思えない。だが群集は、彼が快さ気に眉根を寄せ、身体を波打たせて生み出す音に一瞬にして飲まれ、その陶酔に引き込まれているのだ。彼女も例外ではなかった。音楽の事など解らないが、ただ事ではない。
 音楽家も悪くないわ。
 歌うようなその音色に共鳴する骨の髄を感じながら、まるきり好みのタイプではないのにそんな事を思った、その時だった。
 強い視線を感じ、はっと醒めた。見ると、観客席を挟んだ向こう側、人垣の隙間から、金属的な肌を持った灰色の仮面が彼女を凝視している。



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