リベルタンゴ (11)

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 朝陽を浴びて輝く男の、その美しさに初めて気付き、強く心打たれたのはいつだったろう。あれからもう随分と時間が経っているはずなのに―
 恐ろしい現実が、今初めて彼女の皮膚を鞭打っていた。
 この人は、私とは異なった時間の流れを生きている。
 膝が、震えた。何故立っていられるのだか不思議だ。理解し、覚悟も決めていたつもりだったが、これほどまでとは―
 降り注ぐ光の中、彼は昔と少しも変わらず若く、美しく犯し難い獣のように何もかもがしなやかなのだった。どころではない、ふとした瞬間に漂うあの色香はどうだ。昔からどこか婀娜めいたところのある男だったが、ここまでではなかった。加えて、切れの長い目元に昔は無かった滑らかさが備わり、生来の男性的で鋭い造詣に曲線的な落ち着きをもたらしている。
 残酷すぎる。
 『歳経る価値』など、彼の前では何の意味も無いではないか。若い身体のまま、若い男には持ち得ないものを年々獲得してゆく。人がその若さと引き換えに、努力を積み重ねてようやく手にする美しさを、何をも犠牲にすることなく身に付けてゆく。それがこの男なのだ。
 ひどい―
 自分は、綺麗だ。今はまだ。客観的に見ても、そう不釣合いではない。今は、まだ。
 だがこの薄い皮膚のすぐ下に、『老い』は迫っている。
 こればかりは、彼女にだってどうしようもない。龍球に頼るという他愛無い案など、差し迫っていないと思っていたからこそ気軽に候補に挙がったに過ぎない。実際、問題はそんなところにあるのではなかった。もしも彼らの間柄に彼女の若さが不可欠であり、それを龍球で手に入れたとして、果たしてかれらは元の彼等のままでいられるものだろうか。互いが望み、必要とする互いであり続け得るのか。
(必要―)
 いつまで自分を必要としてくれるだろう。自分はいつまで、求められるだろうか。いつまで、その腕の中の世界を占領し続ける事が出来るのだろう。
 いつか、彼の去る日が来るかもしれない。
 その可能性を笑い飛ばすには、彼女は現実を知り過ぎていた。
 深く愛されている、という実感はある。だが、彼と彼女は普通の男と女ではない。この先肉体的にどれほどのギャップが生じるのか、誰にも分からない。そして肉体の開きは、どんなに努力してみたところで、精神の開きに繋がって行くだろう。年齢差で生じるすれ違いの大きな原因は、主としてそこにあると言って良いのではないか。それらをどう埋め、どう乗り越えてゆくのか。老化速度の差異。彼らは、かつてこの地球上で誰も経験したことの無い領域に、足を踏み入れなければならないのだ。
 彼は、共に歩んでくれるだろうか。自分は、共に歩き通す事が出来るだろうか。二人が二人共に投げ出さないでいられるだろうか。少なくとも彼女は、自分には自信がある、と言い切ることが出来なかった。もしも必要とされなくなってしまったなら―おそらくは心身共に若いままの彼に―、尚惨めに追い縋る事など、自分に出来よう筈もないのだ。
 べき、という乾いた音で我に返った。見ると、彼の手の中でボウが二つに割れ、糸で両端が繋がったまま指先からぶら下がっている。常のように不興顔ではあったが、そこに怒りの類は浮かんでいなかった。ここのところでは珍しい事だが、単に力加減を誤ったのだろう。彼は、かつて弦であったその糸の先にじっと視線を落としていたが、やがてふいと窓の外に目を遣り、彼女からは完全にその表情が見えなくなってしまった。
「ベジータ」
 悟り切る事など出来そうにない。
 焦燥と、恐怖。彼女も、闘わない訳には行かないだろう。多くの女達が、それと無縁ではいられぬ以上に。
 だが果てに待つのがどんな結末であれ、今は彼を見ていたい、と思った。姿を、仕草を、心に焼き付けておきたい。彼らがそれをどんな形で迎えるのかが判らないからこそ、今は精一杯近くに居たい。自分の全部で、彼を記憶しておきたい。
 光の中に足を踏み入れる事に、ためらいを感じた。色々なものが露わになってしまいそうで怖いのかもしれない。小さくて無防備で情けない自分の姿が白日の下に晒される事が、恐ろしいのかもしれなかった。
「ベジータ」
 だが彼女は、勇気を振り絞って一歩を踏み出した。呼び掛けに答えない背中に、それでも温度を感じる。彼女にだけ開かれた身体。今は彼女にだけ、触れ、抱き、愛し、受け入れる事の許された、鋭い肉体。それはきっと、何より確かな証なのだと思う。言葉にも形にもならない、彼の心の―
 剥き出しになった二の腕をそっと撫でると、彼はようやく顔を巡らせ、傍らに立つ彼女を仰ぎ見る。
「冷たい」
 彼はやや不機嫌そうな声で低く呟き、チェロを静かに窓下の壁に預けた。それからゆっくりと右腕を伸ばして彼女の腰を抱き寄せ、臍の辺りに顔を押し付ける。彼はいつも、このとき一瞬だけ無防備な表情を見せる。彼女だけの、大きな赤ん坊になる。
「いい子ね」
 硬い髪に指を入れると、彼が心地良さ気に小さく鼻を鳴らした。涙ぐんでしまったのを見られたくなくて、両腕を回して強く掻き抱くと、彼女の腹の上で彼がくぐもった声を上げる。
「よせ」
 だが自ら体を離そうとはしない。男の指は、こうした際の定位置に―彼女の尻に―やわやわと食い込んだままだ。
「あんたって、さりげなく上手よね」
「・・何がだ?」
 気付かれぬように指先で目頭を拭い、彼女は彼の膝の上に―彼女だけの彼の王国に、身体を滑り込ませる。そうして今度は胸元に頭を抱き寄せると、軽く腰を支えている彼の掌に少しだけ力がこもった。微かに動いた指先から、彼の感じている快さが彼女に注ぎ込まれ、彼女は目眩のような幸福感に襲われる。
「ベジータ」
 何故唐突にそんな事を言い出したのだか、自分でも分からない。だがその言葉は、優しい声で彼を呼んだその後から、ほとんど意識しないまま口を突いて出た。
「あたしね、赤ちゃんが欲しい」



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