リベルタンゴ (1)

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「今度は欧州よ。一緒にどう?」
 間髪入れずに断られるだろうと思っていたが、彼が漏らした次の一言は、彼女が予想もしていなかったものだった。
「いつだ」
「は?何が」
 しばし間があったものだから、蝉の羽のように薄い靴下を指先でつまみ、注意深く足を入れているところだった彼女がその意味を咀嚼するのに、数秒を要した。
「・・いつって、あんた一緒に行くの?」
「今お前が誘ったんだろ。撤回するならそう言え」
 朝、彼女が身支度を整える時間になっても彼がベッドに居るなど、ほとんど無い事だ。
 だが今朝はどうした訳か、なかなかそこから降りようとしなかった。毛布のまったりとした襞の中に半裸の身体を横たえたまま、化粧をしたり、バスローブを脱ぎ捨てて下着を着ける彼女を、片腕を枕にじろじろと観察している。
『何よ、なに見惚れてるの』
『いいから続けろ』
 言われなくとも支度は続けねばならなかったが、無防備な姿を視姦されているようでどうにも恥ずかしい。そんな自分を覚られるのが悔しいものだから、色々喋って紛らして(誤魔化して)いたのだ。そういう訳で真剣に吐いたわけでもない台詞にそんな言葉が返って来たので、彼女は驚きを隠せなかった。
「どうしたの、熱でもあるんじゃない?」
 ガーターの止め具を嵌め、先日うっかり作った右手人差指の薬品荒れに注意しつつ靴下上部のレースを引っ張り、具合を確かめながら上目遣いに顔を見遣る。その態度と言葉を少々無礼だと感じたのだろう、彼はむっと眉根を寄せ、ごろりと寝返りを打って背中を向けてしまった。
「ああウソウソ、嬉しいわ。まさかあんたがそんな事言うとは思わなかったからさ・・」
 でもどういう風の吹き回し?ベッドに腰を下ろし、背後から顔を覗き込むようにして宥めてみたが、せっかくの御機嫌を損ねてしまったらしく、男は目を瞑って彼女を無視している。そうして一旦下りた彼の瞼は、簡単には開かない。逞しい上腕に与えられる彼女の優しい愛撫にも、うるさそうに肩を揺すっただけだった。
「もう、何ふくれてるのよ」
 明後日からよ、それまでに機嫌直してね。うなじにキスを落とし、硬い髪に指先を入れて一つくしけずると、立ち上がってもう片方のストッキングを手に取った。それに爪先を差し入れ、彼女は自分が微かに昂っている事に気付く。
(スペシャルウイークになるわね)
 きっと、良くも悪くも。少なくとも、退屈する事だけはなさそうだった。


 なのに結局、べジータは来なかったのである。
(ホントにね、子供じゃあるまいし)
 一昨日彼女が帰宅した時には既に姿を消しており、それきり現れていない。出発の時も時間一杯まで待ってみたが、戻ってこなかった。ホテルに到着してからも、もしやと思ってロビーをうろうろしてみたが、あの特徴的な姿を見出す事は出来なかったのだ。
(いいわよ)
 あたしはあんたが居なくても楽しめるのよ。あんたはそうじゃないだろうけど。
 カウンタでチェックインの手続きを済ませ、無理を言って部屋を替えてもらったのに、と腹を立てながらポーターの背に続く。謝肉祭を数日後に控え、街やロビーは浮き足立った人々でごった返していたが、客室の並ぶこのフロアでは、さすがにその喧騒も遠い。
 見掛けどおり気取り返ったホテルなら気には入るまいが、実に気さくでありながら、尚且つ望まない限り干渉してこないスタッフとの適度な距離感が好きで、彼女はよくここを利用していた。大潮で水浸しになるロビーに閉口する事もあったが、それは水の都であるこの街の宿命であり、また醍醐味だと言えなくもない。
 一人になると、彼女はその時代掛かった美しい部屋をしげしげと観察して歩いた。いつも使う部屋はもっと小ぢんまりして落ち着いた雰囲気だったが(女一人の滞在にはそれで充分だった)、ここはやたらと金色の曲線が多くて何もかもが大袈裟(良く言えば重厚)、ドアノブから調度から窓枠に至るまで、いや窓の外に広がる運河の景色まで、芸術そのもの、贅と華麗の極み、と言ったところである。振り向けばそこに鬘を被った中世の王侯貴族が立っていた、なんて事があっても全く違和感が無いだろう。もともとこの建物はそうした人々が使用していたものなのだから、当たり前の話ではある。
「あーあ」
 ばっかみたい。そう呟いて身体を投げ出したベッドは、他人より大きな寝台の住人でもある彼女には控えめに言って幾分小さく、それが二つを繋げたセミダブルサイズでなかったならば、勢いで向こう側に転がり落ちていたところだったろう。
「品の良いこと」
 ほんと、昔の人って寝相が良かったのね。憎々しげに呟き、見た目ほど居心地の良くない寝台で寛ぐ事を諦めてテーブルへ移動した。縁や脚に凝った装飾が施された丸いそれの上には、シャンパンのボトルが一本、手前に磨き抜かれた細脚のグラスが(予定通り)二つ、その隣にある銀器にはフルーツが小山のように積み上げられている。翡翠色の葡萄の房を持ち上げ、どうせなら苺を山盛りにしてくれたらいいのに、と零しながらかぶりつく。
「馬鹿みたい」
 時間も金も、無駄に浪費するのは嫌いだ。たまには一緒に文化なるものを満喫しようと我儘を通してもらったというのに、肝心の彼はいない。



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