リベルタンゴ (4)

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(あらまあ、相当出来上がってるわ、この子)
 様々な場面で、もううんざりするほど耳にした台詞だ。そこに込められた諸々の思惑を撥ねつける意味でも、常なら大抵、黙って冷たく笑う場面である。
「ずっと憧れてたんです。想った通りの、いやそれ以上の人だ」
「よく考えてみて」
 だがこの時、自分の左手を握って泣き出しそうに真剣な(酔っているが)眼差しを向けてくる若者を見下ろし、繊細そうな手指のしっとりと若々しい感触を、痛々しいとも、傲慢だとも感じながら、この可憐な青年を傷付けたくないものだと彼女は柄にも無いことを考えた。
「いくら何でも突然過ぎるって思わない?会って何時間も経たないのに、いきなり結婚してくれだなんて」
「・・ええ、そうですね。あなたにとっては突然なんだ」
「それに私、きっとあなたより一回り以上年上よ。分かってる?」
「年下は嫌いですか」
「ふふ、いいえ」
「でしたら・・いえ、是非考えて頂けませんか」
「残念だけど夫がいるのよ、私」
 知らないはずだと思ったのだ。ところが、若者は酔っているとも思われない顔つきで当たり前のように大きく頷いた。
「知ってます」
「知ってるの?」
「何百人も殺したマフィアの元殺し屋で、そのとき懇ろになった女性を何人も外に囲ってて、仕事もしないくせにものすごい大食漢で、日夜変な部屋に篭って身体ばっかり鍛えてるって聞いてます」
「・・誰に?」
「探偵に。調べてもらったんです」
「・・何て探偵社?よかったら今後の参考に・・」
「リムジン・エージェンシーです。西の都の外れにあります」
「・・・なんでまたそんな弱小事務所に・・」
「気味が悪いですか。でもどうか僕を嫌わないで下さい。噂を聞いてじっとしていられなかったんだ」
「うわさ?」
「あなたに寄生して財産を吸い取ってる悪い男がいる、暴力で押さえつけられて、あなたも御家族も逆らえないでいるって」
「・・バイオレンスね」
「もっと・・ひどいのもあるんです、聞くに堪えないような」
「でしょうね、想像できるわ」
 実際、難しくなかった。噂はほとんどの場合下世話な方向に転がり、自分勝手に膨らんでゆくものだ。空想の中で、人は本性を剥き出しに他人をいいように弄ぶ。
「手を切って下さい、その男と。僕が命を張ってでもあなたを守ってみせます。今手掛けている研究が成功すれば一人前になれるんだ。今は不釣合いだって解ってるけど、必ず追いついて・・」
「ちょっと待って」
「・・はい?」
「あなた、肝心な事を忘れてるわ」
「肝心な事?」
「世間がどう噂してるのかは知らないし、ある程度それは彼らの自由だわ。少しは本当の話が混ざってるのかもしれないし、そうじゃないかもしれないわね。でもどっちにしても、私は彼と別れるつもりはないの」
「・・どうして?酷い男なんでしょう?」
「どうかしら、それは見る人の尺度なんじゃない?彼は確かに、世に言う『仕事』は一切しないわ。一ゼニーだって稼いじゃ来ない。かといって主夫って訳でもないし、特に優しい男でもない。『聞くに堪えない噂』てのもひょっとしたら当ってるのかもね」
「・・・わかりません、だったら・・」
「そうかしら、私にとってはとてもシンプルなんだけど」
「わかりません、僕には」
「どんな男であろうと、私にはあの人が必要なの」
「・・・・・」
「一度、失ったわ。その時あたしは半分死んだ。今はね、あの人がどこかで呼吸してるんだって思うだけで幸せよ。解る?彼はただ息をしてるだけで私を満たすの」
 それで十分だったろう。だから、他の人じゃだめなの、と続けるつもりだったのだ。だが何故だろう、彼女は突然、この不自然なまでに真っ白な頬を踏みにじってやりたいという衝動に駆られた。
「あなた、私にそう思わせるだけの男になれるかしら」
 澄んだ琥珀に広がる暗い濁りを確認し、彼女は自分を見上げる瞳からそっと視線を遠ざけた。ゆるく瞼を下ろしながら、自分は何から目を逸らしたのだろうと考える。面白いほどのその反応に覚えた愉悦か、あるいはその先の罪悪感だろうか。
(どのみちこうなるのよ、仕方ないじゃない)
 彼女は黙ってそうつぶやく。コルセットのせいだろうか、かすかに胸苦しかった。

 酔い潰れた若者をスタッフに託し、奥に運び入れられるのをスー博士と共に見送ってから、彼女は店を出た。釣鐘型のスカートの下、靴先で探り探りステップを降りる彼女に、実にさりげなく右肘を貸して博士が歩行を助ける。
「もう戻られるのか、夜はこれからだというのに」
「予約で一杯なんだもの」
「おほほ、そうでしたな。それにしても残念だ、今夜は若い彼に独り占めされて、あまりお話出来なかった」
「そうね」
「お守(もり)は大変でしたろう。あれは優秀だし、良い子なのですがな、少々思い込みの激しい所があるのです。ま、もっともその位でなければ学者などやってはおれんかもしれんが」
「・・お耳に届いてましたの?」
「いいや。だが私だって伊達に老人をやってる訳じゃない」
「ふふ、老人だなんてよくおっしゃる」
 まもなく日付が変わる。
 明日帰ろう、とさっき決めた。べジータと一緒だと思っていたので、もう少し滞在する予定だったのだが、実際は常と同じく一人だ。それにあの若者と話していて、彼が恋しくてたまらなくなってきた。
「明日、戻ります」
「明日?また急ですな。カルナヴァーレの間は居て下さるものだとばかり・・」
「そのつもりだったけど、急用が出来て」
「この特別な都で過ごす特別な一週間よりも大切な御用だとは」
「色々お世話になりましたわ。ありがとう」
「重ねがさね残念ですよ。それはそうと、本当にお送りしなくて良いのですか」
「ええ、こんなに賑やかだもの。大丈夫よ。楽しみながら歩くわ」
「お気をつけて、セニョーラ。人生は短い、また近いうちお目に掛かりたいものです」
「ごきげんよう、ドットーレ。西の都にいらしたら訪ねてくださいな」



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