リベルタンゴ (6)

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 なによ、あいつ。
 まっすぐ見返してやったが、仮面は微動だにしなかった。沸き起こる拍手や歓声も、果たして聞こえているのだか疑問だ。人の隙間に見え隠れする部分から、黒いマントのようなもので全身を覆っているらしい事が分かる。舞台に射す大型ライトの照り返しがあったが、彼らの距離は幾分長く、はっきりとは観察できなかった。だが頬骨・鼻先辺りまでを覆う仮面から露出した下顎の骨格は、遠目にもそれが男であろう事を窺わせる。
(・・・?)
 奇妙な高鳴りに気付き、そっと左の乳房に触れた。膨らみを挟んで、とくとくと振動が伝わる。
 視線に緊張しているのではない。見られる事になど慣れている。二曲目、タンゴが始まり、ダンサーを加えて高まる舞台に同調しているだけだ。が、何かが引っ掛かる。自分はこのフィーリングを知っている、という気がするのだ
 何だった?この感じ―
 居心地の悪さ、ある種のいたたまれなさ。だがそれだけではない。
(嫌)
 倒錯に落ちゆく己を発見し、背を走る感触にぞっと身震いした。激しさを増す演奏、行き交う仮面の群れ、現実離れした人々の装い。水上に現れた蜃気楼の如き、この不思議な光景が拍車を掛けているのか。目を模(かたど)った真っ黒な穴の奥から凝視されているうち、彼女は自分が周囲から隔絶され、がんじがらめに縛り上げられてゆくような感覚に捕われた。
(怖い)
 振り切るように、視線を逸らした。群衆に混じり、裾を引くスカートで身体の向きを変える事は困難だったが、彼女は顔を背けたままもたもたと後ずさり、人垣を割りながらやっとの事で背を向け、輪の外へ抜け出る。逃げるようで悔しかったが、一刻も早くこの場を去り、あの仮面を視野の外に追い出したかった。既に男の姿は見えなくなっていたが、不自由な足さばきで可能な限り足早に舞台から遠ざかる。
 途中振り返ったが、追われている様子は無かった。だが少しほっとして視線を戻すと、珍しい仮装ではないのだろう、件の男と似たような格好、同じような仮面を付けた人々が前後左右に溢れている事に気付く。
(しつこいわね!)
 彼らの視線の悉くが自分に注がれている気がして、彼女は遂に走り出した。振動で弛み始めた仮面をかなぐり捨て、まろびそうになりながら闇雲に走る。この街は、一歩裏へ入り込めば無数の細い路地が入り組んでいる。逃れたい一心でそこへ飛び込み、気付けば自分がどこにいるのだか分からなくなっていた。
「やだ・・」
 表通りとは打って変わり、周囲は随分と薄暗く、ひっそりしている。宿へ戻るのだろうか、細い路地のずっと奥を遠ざかる仮装の二人連れが見えたが、薄いベールをたなびかせているその仄白い後姿すら、現か幻影か定かではないという気がした。他には一つの人影も見当たらない。石畳の模様がぼんやりとしか見えない事に突如強い恐怖を感じ、足が竦んだ。
 こんなところで変なのと遭遇したら―
 せめて明かりの近くまで引き返そうと振り向き、死ぬほど驚愕した。手を伸ばせば触れるほどの所に、さっきの男が立っている。
「き・・・」
 きゃあ、という悲鳴は、ずいと近づいてきた男の掌に押し込められてくぐもった。
 どうしよう。
 などと考えている余裕はなかった。この男が彼女と友達になろうとしているのでない事は明らかだ。取り落とした萌黄色のバッグに全く興味を示そうとしないのだから、少なくとも物盗りだけが目的でもないのだろう。彼女は逃れようと無我夢中で暴れたが、大きな右手でがっちりと両頬を掴まれ、満足に呼吸もできない。不思議と痛みは無かったが、ものすごい力だ。首を振ろうとしたが、頭は己のものとは思えぬほどびくともせず、身体が反対側に捩れただけだった。
 男はそうして彼女を片手で拘束したまま、じりじりと壁際に押し遣った。広場の温かな光のせいか気付かないでいたが、中天に少し欠けた月が浮かんでいる。こんな美しい月夜に自分は犯され、殺されるのだろうか。暴漢を背後から照らす冷たい光は、幻想的なこの夜を切り裂くように降り注ぎ、ここが紛れも無い現実の世界であるという残酷な事実を突き付ける。興奮で沸騰していた彼女の血が、急速に凍りついてゆく。自分を冷やす男の、その手の熱すら慕わしく思えて、彼女は己の感情の訳の分からなさに困惑する。
 あの、憑かれたようなチェロの音色が耳に届いた。広場からは幾分距離があると思うのだが、不思議とすぐ傍に響く。自分の小さな鼻腔から漏れる苦しい息は、何故か遠い。これはかのピアソラの名曲だ。彼女が命さえ脅かされているこの今だというのに、その音色の、何とのびやかに奔放なことか。
 男の顔半分を覆う灰色の仮面が、月の照り返す中でぼんやりと光る。頭上から側頭に掛けて黒く大きな羽根飾りを戴いており、毛髪を確認する事は出来なかった。唯一露出している頬から顎の皮膚が、反照の中に白く浮かぶ。その中心で引き結ばれた唇は意外にも上品な形をしていて、そこに差す艶は一種奇妙に婀娜めいた空気を醸し出している。
 ふと、男が手を緩めた。大人しくなったのを見て、彼女が観念したとでも思ったのか。
 隙を突いて逃げてやる。
 どんな時でも活路を見出そうとするその生命力は、誰もが舌を巻く彼女の才能の一つであった。だが次の瞬間、僅かに見えた希望の光も、今度は両の二の腕に食い込んできた指先に揉み消されそうになる。口が自由になったのだから叫ぶ事は出来ようが(現実問題として恐怖に強張った声帯でそれが可能かどうか疑問ではあったが)、今声を上げようものなら即座に殺されるかもしれない。
 大丈夫、まだチャンスはある。
 締め上げられているせいで腕の血流が滞り、指先がじんじんと痺れ始めていたが、彼女はそう自分を励ました。せめて目は閉じまい。仮面の奥、欲望に歪む瞳を見届けてやるのだ。全身がたがた震えるのはどうしようもなかったが、近づいてくる男の顔を必死で睨み付ける。
 唇が重なる直前、研磨された黒琥珀のようなその目の色が、初めて確認できた。あ、と思った時にはもう押し塞がれていて、彼女は彼の名を呼ぶ事が出来なかった。口中に押し入り、歯や粘膜を侵す舌先の巧みで特徴的な蠢きに、直感は確信に変わった。安堵と快さに溶け、瞼が力を失う。彼の送り込む熱に、身体は柔らかく反応を始める。
「あんたなの」
 弾む息の下、彼女はやっとのことでそう囁いた。胴を締め上げた衣装で走ったり暴れたりした上に、この情熱的な挨拶だ、それに極度の緊張から開放された事も手伝っただろう、意識が薄くなる。男が微かに片頬を上げ、初めてその唇に表情らしきものを乗せた。まるで誂えたように彼女に馴染む、愛しい造詣。どうして気付かなかったのだろう。それが押し付けられていない場所など、己の体のどこにも無いのに。
 崩折れ、圧倒的な身体に抱き止められながら、不意に涙が出た。それが声になったのかどうか、遠退く意識の中で聞き届ける事は出来なかった。



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