リベルタンゴ (14)

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 医師に伴われ、裏手の関係者用出入口から来院したので最初気付かなかったのだが、結構な大病院であったらしい。診察室を出てホールに降りるまで幾分手間取った。道に迷ったのである。常であれば『表示が分かりにくいせいだ』と少々腹を立てたかもしれない。だがこの時彼女は、じんわり湧き上がってくる幸福の実感に顔が緩みっぱなしだったので、何の問題にもならなかった。
 ホールに出て、診療代を支払うために順番待ちしている最中、ガラス張りの正面玄関の方から視線を感じた。いつものことだ、と気にも留めていなかったが、真傍まで近付いて来た気配に彼女がやっと注意を向けると、視線の先に先日の青年物理学者が立っている。
『どうしたの?こんなところで』
『ハンティングです』
『病院で?』
『はい』
『ふふ、お目当ては看護婦さん?』
『いいえ、彼女は二人目を身籠った母親です』
『まあ、どうして知ってるの?』
『お店に入るのを見掛けて。つい追いかけてしまった』
『あなた、あそこに居たっけ?』
『いえ』
 なんだか顔を合わせ辛くて、すぐに出てしまいましたから。そう呟いて自嘲するように薄く笑い、青年は目を伏せた。白亜のポーチが撥ね返す真昼の光の中で、密集した睫毛の梳いたような毛流れが、艶々と美しい。長い脚を細身のブルージーンズで包み、白い襟無しシャツをきちんと身に付けていて、歳相応に、というよりもずっと若くて無防備に見えた。
『おめでとう。心から祝福を』
『ありがとう』
『ひとまず撤退しますよ。あなたは今、すごく幸せそうだから』
『ええ』
『でも、諦めません』
『いつまでそう言ってくれるかしらね』
 今、とても綺麗な顔をしているだろうと自分でも判る。彼女は、この青年がいつか真実の運命と出会えますように、と心から祈った。それは傷付けた相手を前に優越感に浸る女のそれではなく、若い人を愛しく、大切に感じる母親の気持ちからであったと思う。彼女にとってどちらでも良い話ではある。どちらの自分も、愛してやまないからだ。だが、もしも今浮かべている微笑が彼を聖母のように温め続けるとするならば、彼女はますます自らを誇りに思うことだろう。
『ごきげんよう、セニョーラ』
『ごきげんよう、あなたの研究に注目してるわ』
『ええ、そうなさるべきです。僕は有望株ですから』
『ふふふ』
 先日は色々ごめんなさい、と謝罪することもない。あまり世間ずれしておらず、そのあたりに気の回らない男なのだろう。いや、気付いていてわざとそうしているのであれば、これは確かに有望株に違いあるまい。
 立ち去ってゆく彼を陽の中に送り返すべく、正面玄関のガラス戸がスライドして開く。青年が、振り向いて少し声を張り上げた。風のように笑っている。柔らかそうな黒髪が、波打って輝いた。
『その子、きっと女の子ですね』

「ねえ」
「なんだ」
「あんた、どっちが欲しい?」
「ベーコン」
「もう、違うわよ!男の子と女の子どっちが欲しいかって訊いてるの」
「・・訊いてどうするんだ?産み分け出来るとでもいうのか」
「出来るとしたらどっちがいい?」
「・・・・・」
「そのアスパラいっぱいのやつ一切れ取ってよ」
「・・・・・」
「ああ、マルゲリータも」
「・・・・・」
「どう、そろそろ決まった?」
「・・別に」
「別に?」
「どっちでもいい」
「へえ」
「なんだ」
「男の子がいい、って言うかと思った」
「?何故だ」
「鍛えられるからよ。好きでしょ」
「別に好きでやってる訳じゃない」
「あら、そうなの。趣味だと思ってた」
「第一、女だから鍛えられないって事はないだろ」
「あんたやトランクスみたくムキムキになっても知らないわよ」
「サイヤ人は男も女も戦士だ。べつに俺は構わん」
「あたしが構うの。あたしと、この子のパートナーがね」
「・・気の早い話だな」
「じゃあ訊くけど、もしあたしがそんな風になったらどう?嫌でしょ?」
「別に。お前はお前だろ」
 それがカサノヴァも青ざめるような愛の囁きだと気付いているのかいないのか、彼はベーコンとキノコのピッツァ一枚を手元に引き寄せて八つに畳み、一気に頬張った。



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