リベルタンゴ (3)

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 暖かな色の灯に照らし出されたその部屋の景色に、ベジータは呆気にとられた。
 あまりに大仰で時代掛かった内装に、ではない。この街がいかれているらしいという事など、外の奇妙奇天烈な人混みを見ればすぐに解る。
(・・・どこにいても変わらんのだな、あの女)
 ベッドの天蓋の下、脱ぎ散らかされた女物の衣類。白いツイードの上着とタイトスカート、深々と胸元の刳れたレタスグリーンのトップスやその他諸々の下で、柔らかそうなキャメルのコートが大きく波打ち、艶々と光を跳ね返している。床の上では黒いハイヒールがあっちとこっちに二メートルほども離れて転がっていた。ベッドの足元にあるスツールは、放り出されたバッグの口から零れた小物類の陳列棚になっている。
 彼女がそうやって所構わず散らかし回るのを眺めては、べジータはいつも首を傾げていた。身の周りをあんな無法地帯にして平気でいられるという事が、彼には不可解だったのだ。服を脱いだら脱ぎっぱなし、本を引っ張り出しては机の上に広げっぱなし(しかもそれを積み重ねると来てる)、ナチョスの食べかすは床の上に散らばっているし、コーヒーを飲みさしたカップが移動した先々で放置されているし、ドレッサーの上は常に大小の化粧品類で溢れて手を置く隙間もない。こんなに混沌としていたのでは、必要な時に必要なものが見つからず不便・不合理極まりないと思うのだが、彼女は 『頭の中を次から次へと考えが駆け巡るので、片付けにまで脳のスペースを割くのが勿体無いのだ』 と訳の解らない事を正論めかしてぶちかまし、一向に改める気配が無い。
(あんなものまで・・)
 首を振りふり身体の向きを変えた彼は、どしりと厚みのある丸テーブルの傍、薄茶のびろうどを張った椅子の背に、細いプリーツを施した赤い布切れが投げ出されているのをみつけて眉をひそめた。それから、ひょっとしてと椅子の足下辺りに(何故か)急いで視線を移したが、どうやら下半身に着ける方は脱ぎ捨てられてはいないようだった。溜息を吐き、堅い木材にやたらと響く靴音に顔を顰めながら近づく。手にとってみると、果たして思ったとおり、彼女が夜着としても好んで身に着ける種類のキャミソールだった。下着になど(断じて)興味はなかったが、女がそれらをグランディールだのパルテールだのクラージュだのと大層な名前で呼ぶので、固有名詞まで記憶してはいなかったものの、繰り返し聞かされる側の彼にも、少しは見分けが付くようになっている。
『なんで破っちゃうのよ!?わざとでしょ!』
『うるさいぞ!嫌なら最初から着て来なきゃいいだろ!』
『なんですって!?』
 椅子に腰を下ろした時、ふと昔の遣り取りを思い出し、彼は口元を歪めてちょっと笑った。扱いに慣れなかった頃、彼にとってそれらは実に面倒な代物だったのである。
 乳房を覆う立体的なあれはともかく、この薄羽根のようなものがどういう機能を果たしているのだかは未だに良く解らない(ちゃんと役立っているのだろうかと首を傾げたくなる極めて小さな下着もしかり)。ひらひらと頼り無く、ちょっと力を入れると破れてしまうが、そうなると女は眉を吊り上げてぎゃあぎゃあ喚くし(お陰で空気は台無しになるし)、ならばとそのまま挑みかかると、向こうの気分次第で(だから三度に二度ほどは)ケダモノだのサルだのと暴れられること仕切りであった。そうしてひっぱたかれたり引っ掛かれたりして抵抗されたい気分の時にはそれで良かったが、彼とてそういつもいつもワイルドでサディスティックな心持ちで寝室に入る訳ではないのだ。だから彼は、なぜ俺がこんな、と我に返りそうになる事もしばしばだったが、時間を掛け、辛抱強くイントロダクションの技を磨いた。
「大真面目だな」
 彼は遂に吹き出し、キャミソールを絡ませた右手でそのまま両のこめかみを掴んだ。己の健気さに涙が出るほど笑えて―だが一人だからと言って馬鹿笑いするようなみっともない真似は出来ない―椅子の上で細かく身体を震わせる。
 ああ、と合間に息を吸い込んだとき、鼻先に垂れ下がった細かな襞の隙間から嗅ぎ慣れた香りが滑り込んで来た。彼は笑うのをやめ、確認するように目元から離してその赤い布をみつめる。部屋の中の静けさが耳の奥にしんと沁み、顔を上げた。彼の玄関になった両開きの窓も(無用心な事に鍵も掛けられていなかった!)侵入者である彼自身の手でぴたりと閉じられ、外の喧騒は遠く微かだ。そこから見える塗り潰したような漆黒の底は仄明るく、所どころ宝石を撒いたように煌いている。
 彼はしかし、いつからかその厄介な時間を堪能するようになっていた。低く忍びやかな笑いも、時に喋り過ぎだと辟易する睦言も、段々と湿度を増してゆく吐息も、すべてが女と重ねる時間に奥深い味わいを添えるものだと気付いたのだ。レースの繊細な凹凸や、シルクの流れるような表面に指を滑らせて少しずつ彼女を剥き、時間を掛けて焦らしながら、理性というベールをゆっくりはぎ取ってゆく、その楽しみ。彼女は最初から、この薄布たちがそうした際の良きエッセンスになるだろう事を知っていたのに違いない。彼女にはそうした経験を(あるいは実験か)積み重ねる相手が彼以前にも居たのだ。
(何してやがる、さっさと戻れ)
 面白くない事を思い出してむかむかと腹が立ち、彼はさっと腰を上げて窓辺へ足を運ぶ。だが部屋の照明が邪魔で、路上の様子は見えなかった。



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