リベルタンゴ (8)

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 床材を打つ硬い音が、ゆっくりと近付いて来た。革靴だろうか、踵から爪先まで動きの一切に無駄が無いのだろうその足運びは、舞踏を思わせる。
 瞼を開くと、窓が見えた。中天に達した月が照らす初春の夜の空気を切り取り、細長く浮かんでいる。すぐ目の前に、色を乗せた自分の手指の爪先があった。薄暗がりの中で少し色濃く光るそれが、彼女の青み掛かった肌の白さを際立たせる。ベッドに横臥しているようだ、少し頭を動かすと、髪が布に擦れる音が耳のすぐ傍でやたらと大きく響いた。
 足音が止み、夜具の沈む気配がそれに続く。腰掛けて彼女を見下ろしているのだろう、背中に微かな体温を感じる。
「気分は」
 広い部屋の空気を震わせ、しっとりと低い声が響いた。それはいつも、彼女の喉の奥、深い場所の柔らかな襞を引っ張る。鼓動を速まらせる事もあれば、安らぎをもたらす事もある、深く豊かな、夜の声。
「窮屈な衣装のせいだな」
 どうやら気を失った事について理由を探しているのであるらしい、彼女の胴を締め上げる下着の背中を指先で撫で下ろしながら、男が呟いた。編み上げの細いリボンに、爪先がぱたぱた引っ掛かる。その音で、彼女は自分がコルセットとパニエのみという姿である事に気付いた。息が楽になるよう、彼が衣服を緩めようと試みたのかもしれない。複雑な鎧にてこずったものか諦めたものか、あるいはチャレンジの最中であったのかもしれないが、肝心なものはそのままだったが。
「あら、ちょっとは反省してるわけ」
「何をだ」
「タチが悪いわよ、あんた」
「ほう、あのまま地面に引き倒した方が良かったか」
「そんな事しててごらんなさい、一生口きいてあげないんだから」
「そりゃ静かでいい」
 ふふん、と笑った男を身体をひねって振り返ると、あの大きな羽根飾り付きの仮面は既にその顔面から消えていた。彼の背後遠く、扉近くにあるスツールの上にそれらしき物体が放り出されているのが見える。その傍で座面から垂れ下がる黒々した布は、例の長い外套だろうか。
「・・ねえ、それどうしたの」
 仮面の飾りを考えると少々ちぐはぐな組み合わせだという気がしたが、彼は黒いタキシードに白シャツ、それに暗くて色がはっきり分からないのだが、グレー掛かって見える蝶タイ、手には白い布手袋を着けている。いずれも、普通に洋服屋を訪ねて試着室に入り、店員やら縫い子に身体を触られながら選んだものだとは、彼に限っては非常に考え難かった。
「憐れな通行人に眠ってもらったのさ」
「・・・やっぱり」
「肺炎の心配なら必要ないぞ。身包み剥いで、表通りに転がしといてやったからな」
「・・そりゃ上出来ね」
 常と違っている。一見普通だし、他の人間が見ても多分わからないのだろうが、この男は少々酔っているようだと彼女は気付いた。そういえば、さっきは気が動顛していて気付かなかったが(それに彼女自身少し酒が入っている)、接近したときアルコール臭が漂ったような、おぼろな記憶がある。
「酔ってるの?」
「・・さあな」
「じゃなきゃこんな事しないわね。そこにあったワインでも飲んだんでしょう」
「かもな」
 尻上がりに軽く答えながら、彼は優雅な仕草で左の手袋を外した。忍び入る月の反射が、ゆるりと現れた節に滑らかな艶を添える。裸になった左手はそのままパニエの裾に伸びてきて、彼女のくるぶしを一撫でした。
「いや・・」
 彼は要部を知り尽くしている。微かに漏れた声は無視し、快さの予感でぴくりと緊張したふくらはぎに指先を登らせた。膝裏の上辺りにある彼女のプレスイッチに達すると、一旦移動をやめ、焦らすようにしてじわじわと動かす。
 彼の表情は冷たく、いささかの波立ちも無い。けれど、その鋭利な輪郭の内で卑猥な想像が―たとえば奥にある柔らかさをその場所に重ねているといったような―うねっているかもしれないと考えると、身体の中心を脳天めがけて甘い震えが駆け上がった。動きに伴い、張りのあるチュールレースが強張った音を立てる。その興醒めな音に欲望を暴き立てられる気がして、顔が熱くなる。
「ま、待って」
 足元に蹲る気配に、彼女は慌てて目を開き、顔を上げた。今しもパニエの中に頭を突っ込もうとしていた彼が、彼女の脚の間から面倒そうに首を擡(もた)げて眉根を寄せる。
「待たん」
「ちょっと」
「もう何時間も待った」
 呼吸は静かだったが、声には僅かな湿度と苛立ちがあった。
(やだ、可愛い)
 自分を待って、ここで何時間も焦れていたのだろうか。とはいうものの、このまま雪崩込まれたのでは、またすぐに気を失ってしまう。
「このままじゃ息が苦しいのよ」
「だったら早く脱げ」
「脱げないの」
「なんだと」
「自分じゃ出来ないわ、あんた取ってよ」
 身体をねじってうつ伏せになり、再び彼に背を向ける。
「編目の真ん中辺りに結び目があるでしょう、それ解いて、あとは一段ずつ緩めて・・」
「なんで一人で着脱出来ないようなものを着る」
「仕方ないじゃないの、これは元々そういう身分の人が身に着けるものだったんだから」
 半分は嘘だった。そんな面倒な手順を踏まなくとも、リボンを解き、前身頃のバスクを外せば脱げる。彼の悪趣味な戯れに、ちょっと復讐してやりたくなったのだ。
(遅刻した上に酷いイタズラだもの、このくらい楽しませてよね)
 じりじりしながら細紐と格闘する姿を想像し、彼女は密かに笑う。だが実際問題、自分一人で脱ぐというのは楽ではなさそうだった。『17インチに挑戦するのだ』と張り切ってぎゅうぎゅう締め上げていた為に―現実には届かなかったが―苦労の末に背中の紐は解けたとしても、深さのある頑丈な金具を外そうと思えば(御丁寧に十以上も並んでいる)相当な力が必要だろう。筋や間接に不具合が起きたり、下手をすると肋骨に危険が及ぶかもしれない。
「早く」
 俺はお前の召使じゃない、とか何とか文句が聞こえてくるはずだと思っていたが、背後は随分静かだ。どうしたのだろうと首を巡らせるのと、右の肩甲骨辺りに手袋の指先が触れるのは同時だった。
「あ、駄目」
 何をされるか察知して止めようとしたが、遅かった。彼は、コルセットを形成するボーンの間にある布部分に指を差し入れ、新聞紙を裂くようにして軽々と引き裂き、あっという間に彼女を解放してみせる。
「もう、何するのよ!気に入ってたのに!」
 彼女が腹を立てて叫ぶと、男は喉の奥で低く笑い、背中に覆い被さってきた。
「馬鹿!あんたなんか嫌い!」
 動きを封じられる悔しさに、無駄と解っていて身をよじる。ほとんど動けないのだが、肘から手先(二の腕は完全に拘束されている)、それに脚を小刻みにバタつかせて暴れた。子供じみた行動ではあるが、男の為にそうしている自分というものを、彼女はどこかではっきり自覚している。
「光栄だな」
 圧し掛かったまま囁いたかと思うと、彼は突然、背後から彼女の耳に噛み付いた。
「痛い!」
 軟骨に食い込む牙の鋭さに、思わず悲鳴を上げる。
「嫌、ホントに痛いわ、放して」
 暴れるどころではなかった。動くと余計に痛む。彼女の意識は耳の痛点ひとつに絞り込まれ、そこから繋がる彼に集中する。確か、雌を大人しくさせるために耳を噛む動物がいたが、あれは何だったろうか。実に理に適っている。
「癇癪を起こすな、見苦しいぞ。また作らせたらいい事だろ」
 彼は静かになった彼女を再び解放し、赤く痕の付いた部分を今度は舌先でなぞる。それは彼女を慰撫しているようでもあり、獲物の歯触りや舌触りを純粋に楽しんでいるようでもあった。
「ベジータ」
 首筋から背に移る鼻先の感触に肌を粟立たせながら、彼を呼ぶ。掠れた声に一瞬動きを止め、彼はふふんと鼻を鳴らした。
「ほら、くれてやる」
 目の前に、白手袋がぱさりと落ちる。厚手の糸で織られた上等のものなのだろう、たった今までくるんでいた彼の右手の形を残して、彼女を誘っていた。引き寄せ、その人差指をうっとりと口に含む。ふと、若者の綺麗な琥珀の瞳が浮かんだ。
 ただ息をしてるだけで、私を満たすの。
(こういう訳よ、ぼうや)
 傲慢な理想を痴態に砕かれ、悲しげに歪むその色が見える気がして、彼女は急速に昂ってゆく。
「ベジータ」
 上擦った声で、もう一度彼を呼ぶ。男はペースを崩さない。ただそれに答えるように彼女の尻に頬擦りし、音を立てて接吻した。



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