リベルタンゴ (7)

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 テーブルの上に、開栓した状態のままボトルワインが放置されている。
 白いラベルには、小さな家に四枚の扇状のものを取り付けた奇妙な図柄が描かれており、中身が半分ほどに減っていた。女が飲みさしたものに違いない。傍にはふっくらした半球形のワイングラスがあり、底がまだ湿っているようだ。

 実は、午後の早い時間に到着していた彼である。
 ブルマの居所はすぐに掴めた。だいたいの場所を彼女の母親から聞いていたので、街を探し出すのは容易だった。用向きを考えると中心部に居るのだろう事は想像がついたので、その街で一番賑やかで整備されていそうな区画を選んで上空から探る。すると何とすぐ足下、船着場の前にある珊瑚色の建物の中に、その気配をみつける事が出来た。
(変な所だな)
 あちこちにやたらと川が流れていて、西の都では見掛けない古風な建物のほとんどが、その水際ギリギリに建てられている。というより、水の中に建っていると言った方が当たっているかもしれない。しかもだ、何かの祭りなのかもしれないが、人々の様子が普通ではない。決して全員とは言わないが、到底日常生活にふさわしいとは言えない珍妙な格好で、群れを成してうろうろしている。彼の猛禽類並の視力は、そのほとんどすべてが仮面で顔を覆っている事も捉えた。
(・・・変わった連中だ)
 首を傾げながらも、気付かれぬように斜め上空の少し高い位置から覗くと、彼女もまた風変わりな衣装を着込んでいる真っ最中だった。下界の馬鹿騒ぎに参加する気なのに相違あるまい。それは良い。だが、彼の妻が編み上げの下着(と思しき)姿のまま、カーテンも閉めずに窓辺近くをうろついているとは由々しき事態だ。
(丸見えじゃないか、あの恥知らず!)
 そんなに高い位置から彼女を眺めることの出来る人間など一握りだという事には思い至らず、渋面を作って赤くなったり青くなったりしている彼をよそに、彼女は着々と衣装のパーツを装着してゆく。ベルに棒を挿したような姿が出来上がり、着付師の女が出てゆくと、入れ替わりに今度は全身パイソン柄できめた男―だと思う―がクネクネした腰付きで入って来て、何が気に障ったのかしょっぱなから彼女にどやしつけられ、涙ぐんでいる。
 彼は時々、そうして彼女を覗いて楽しんでいた。徹夜明けの早朝、バルコニーで一人コーヒーを啜っている姿。休日、ソファで友人に電話している姿。夕食後、テレビの前で居眠りする姿。風呂上がり、鼻歌交じりにドライヤーを使っている姿。彼を待つ間、ベッドに腰掛けて身体の手入れをしている姿。それにストレッチを加え、こむらがえりを起こして半ベソをかいている姿。彼女は既に彼の日常でありながら、どれ一つも彼を退屈させない。
(さて)
 「ブルマ劇場」も悪くはないが、再会前に舞台の下見と行こう。
 彼は再び街を鳥瞰すべくその赤っぽい建物に背を向け、気持ちよく晴れた空へと舞い上がった。

 この星には、各々の土地に独自の文化が色濃く残っている。非文明的であるがゆえ、と最初は馬鹿にしていた彼だったが、近頃ではそういった多様性をなかなか面白いものだと感じるようになっていた。一つの星にこれほど長く留まった(なんと十年以上だ)経験が無かったため、それが定住生活の中で育まれた価値観なのか、ただの平和呆けなのかは判じかねたが、昔侵略した星の一つひとつにそんな世界があったのかもしれない、と考えたりする事もある。
 かつては、そんなものに砂粒ほどの値打ちも見出すことは無かった。勝ちに飢え、屈辱に身体を震わせたあのころ。戦って戦って、それだけが己を満たした。傷ついた誇りを返り血で癒した、そんな時代。彼はその“貧しい時代”に思いを馳せるたび、自分がどれほど渇していたかを今更ながら思い知るのだ。
 遠くへ来た、と思う。
 一度は己を売り渡してまで戻ろうとした場所から。もう、あまりにも。
「ふん」
 柄じゃない。彼は物思う自分を鼻で嗤いながら、窓辺を離れて再び天鵞絨(ビロード)張りの椅子に腰を下ろし、酒瓶に手を伸ばした。光を良く通すところを見ると、中身は白なのだろう。彼女はここのところ何たらヴァイスというビールを好んで(肴は常にレバケーゼと酸味の効いたポテトサラダだ)、家ではそればかり口にしているようだったが、さすがに場の空気に合わないとでも思ったか―
(無いな。ありえん)
 そこがどこであろうと、相手が誰であろうと好きなように振る舞う。それがブルマという女だ。ビジネスに於いてはまた違っているのかもしれないが、それは彼の及び知らぬ部分だった。大方、ハンサムな客室係に勧められでもしたのだろう。ゆっくりと傾け、彼女が使いさしたグラスに注ぐと、栓をしていなかったにも関わらず、その金色の酒は果物を凝縮させたような香りを辺りに振り撒いた。
『この泡立ちがたまんない』
 白い泡でヒゲを作って息を吐き出す女を思い出し、彼はちょっと笑った。あんな事くらいで、ああも毎度楽しめる女もあるまい。
 とは言うものの、彼だって近頃では日常の些事に足留めを食らう事も多いのだ。息子との何という事もない会話に ―と言っても彼はほとんど『ああ』だの『そうか』だのと相槌を打つばかりだが― 時間を割いてみたり、少しだけ朝寝して女の寝顔を眺めてみたり、彼女の父親とラボで半日を潰したり。時には彼女の母親のお茶の誘いに乗ることだってあるのだ。そこには決して血沸き肉踊る興奮も、噴き上がる快感も無かったが、それらは、生きるということは案外面白味に満ちているものなのかもしれない、と彼に感じさせる。
『もうちょっとさ、力抜けば?』
 昔日の女の台詞が、耳の奥に甦る。あきれたような、少し憐れむような。
(せいぜい努めるさ)
 彼は大事なものを見失わずに済んだ。実に幸運だったと言っていい。ならば、後はそれなりに「力を抜いて」みるのもいいだろう。迷ナビゲータもいる。
 青い皿の上から細い三角にカットされたパルミジャノ・レジャーノ(パルメザンチーズ)を摘み上げ、口に放り込む。甘くしっとりと、だが同時にじゃりじゃりした舌触りの妙は、これを齧りさしていった女に通ずる気がした。



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