リベルタンゴ (13)

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「・・喰い過ぎじゃないのか」
「何が」
「五枚目だぞ」
「あんたは十七枚目じゃないの」
「お前はサイヤ人じゃないだろ」
「あんただって妊婦じゃないでしょ」
 しょ、の所で、小さな唇からマッシュルームの欠片が飛び出し、白いテーブルクロスに落ちた。彼が露骨に顔を顰めても、ブルマはすましたものだ。あら失礼と悪びれもせずに一言、指先でそれを弾き飛ばすと、次の獲物を狙い定めるべく視線をさまよわせる。
「サイヤ人って胎児の頃から大食漢だわ。トランクスの時はもっとひどかったのよ。四六時中お腹空きっぱなしだった」
 彼女はまだ膨らみの無い自分の腹を掌で軽く撫で、悪阻になる暇もありゃしない、と丸テーブル一杯に並んだピッツアの一枚に手を伸ばす。
「どさくさに紛れて俺のを盗るな」
「心配しなくても大丈夫よ、この子が出たら元に戻るわ」
「心配?」
「美しい妻が太っちゃったらどうしよう、とか思ってるんでしょう。このくらい平気よ、痩せはしても太りゃしないもの。ぜーんぶ吸い取られて追っつきゃしない」
 帰路は、新型の超高速旅客機に乗ってみたい。
 というブルマの希望で、彼らは最終日を空港に隣接する街で過ごす事にした。午前に到着したのだが、チェックイン後にホテルを出て買物中だったブルマが突然目眩を訴え、店に馳せ参じた現地の医師が『懐妊』の診断を下したのである。
『セニョーラ、おめでとう!』
 丸眼鏡の太った医者が、店の外にまで響き渡るような馬鹿でかい声で祝辞を放ったと聞き、別行動で良かったと彼は胸を撫で下ろした。もしもその場に居合わせたら、と考えただけで体中から血の気が引く。
「馬鹿ねえ、いまさら照れるわけ?」
 あんたはホントにいつまでも、と笑った彼女だって、相変わらず無神経で恥知らずという訳だ。今更も何も、彼は彼なのだからどうしようもない。なのに、俺はお前と違って繊細に出来てるんだと鼻を鳴らした彼を見て、彼女は涙が出るほど笑い転げるのである。つい先日、朝陽の中で見せたあの表情は何だったのだと呆れ果て、よくもこんな下品な馬鹿笑いが出来るものだと心の中で悪態をついたが、それでもそうしたさまが彼を悪くない気分にさせる事こそ、この女の不思議の最たるものだった。
「どうりでね、なんか変だったもの」
「変?」
「あたしがよ。マタニティブルーだったのかも」
 確かに変だった。いやむしろ、彼自身が。
 彼女が当初予定していた通り、その後三日を彼らは共に過ごしたのであるが、その間、彼はしばしば奇妙な感覚に悩まされた。
 狭い水路に掛かった小さな橋の上で、鐘楼の天辺を渡る潮風の中で、並んで歩いた港の石畳の上で、隣にいる彼女の白い顔がやけに憂いに満ちて美しかったのである。衆目があったので耐えたが、彼はその都度彼女を引き寄せたいという衝動に駆られて困った。セクシャルなそれというよりもこう、そうしなければ彼女が消えてなくなってしまうのではないか、という気がして遣る瀬無い。
 だから、運河を行くゴンドラの中で彼女が身を寄せてきた時には、埋められなかった空隙を心地良いもので満たされたようで、正直(まったく認めたくはないが)痺れるような充足感を覚えた。頼んでもいないのに歌いまくる船頭には閉口したが、歌うのに夢中で、客である彼らの事はまったく目に入っていない様子なのがむしろ好都合だった。彼は細い肩を守るように抱き、照り輝く水面にひっそりと目を細めて―
(一体、あれは何だったんだ)
 幻でも見ていたのだろうか。オリーブオイルで照り光る唇がせわしなく動く様を横目で眺め、彼は小さく溜息を落とす。あの憂愁漂うはかない横顔と、目の前の生命力溢れるそれと、同じ女のものだとはとても思われなかった。


『生野菜はいけません、生ハムも避けなさい。冷たいものは摂り過ぎないこと。安定期に入るまで身体に衝撃を与えないようにね。激しい運動はいけませんよ。運転も出来るだけ控えなさい。あとはストレスを溜めないようにして、とにかく優しく、身体をいたわること。幸せな御主人と愛し合うのも、少しの間控えなさいな』
 件の医師は内科・産婦人科医であったので、病院に移動し、そのまま彼の診察を受けたのであるが、簡単な検査を済ませた後、くどくどとまるで初心者に言い聞かせるように繰り返される注意の最後の一項に、彼女は冷や汗を禁じ得なかった。
(あの人が一緒じゃなくてよかった・・)
 今頃跡形も無いかもよ、この人。
 その陽気で場違いな歌のような大声のせいで、店内に居合わせた全員から祝福を受ける羽目に陥りはしたが、分厚い丸眼鏡のせいで幾分小さく見える灰色の瞳は知的で、しかし温かみに満ちている。福々しい巨躯といい、そこに居るだけで人を安心させる、一種の名医だろう。この街は、逸材を一人失う事を回避できたという訳だ。
(まあ、ね)
 ベジータほどの男が、まさか本当にそんな軽挙に出たりはしないだろう、と彼女だってそう思うのだが。彼はとにかく、人前での性的なニュアンスに敏感である。手を繋ぐ事にさえ抵抗を覚えるらしいのだ。たとえそれが医師であろうと、自分達の閨事に他人が(その上大声で)立ち入る事を、笑って許す男でないのは確かだった。十代の少年だってもうちょっとこなれている、と溜息を吐くことがしばしばだが、そういう男なのだから仕方がない。もっとも彼らの息子などは、
『バランス取れてていいんじゃない?』
 と言うのだけれど。



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