少しだ。そのまま指先に少し力を込めればいい。そうすれば、お前は夢から覚める。
夢?
これがお前の日常だというのか?戦う事も無く、血を浴びることも無い、こんな毎日が?女や子供に囲まれた、こんなぬるま湯のような生活が?
――
その女は、毒だ。お前がお前でいるためには、血を見ることは不可欠なんじゃないのか。お前の日常からそれを取り上げたのは誰だ?お前をお前ではないものにしているのは誰なんだ?
俺は―
自ら選んでそうしているとでも言いたいのか。だったら脳まで侵されてるんだ。目を覚ませ。その女は何をした?受け入れ難い劣情をお前に植えつけたんじゃないのか。
あれは―
真実でないと何故言い切れる?現にお前は疑ってる。お前にあるべからざるあらゆる事共に振り回されてる。沈着な策士でもあるはずのお前がだ。許せないだろう?許すべきじゃないだろう?裏切りと、冒涜を!
裏切り?
そうさ。そいつはお前の女なんだろう?お前のものなんだろう?だったら他の男と寝るのは裏切りじゃないか。
俺の―
認めたらどうだ?お前はそいつに執着してるんだ。毒にやられておかしくなっちまってるのさ。女は女、ただの女だ。それ以上でも、それ以下でもない。だがそいつは違う。そうだろう?執着して、所有してる。質面倒臭い話だよ。
違う。
違わないさ。お前はその咽喉元にせり上がってくるものが何なのか知ってるんだ。お前はその女に、冒されたんだよ。
―――
ベジータ、忘れた事はないだろう?自分が何者なのかを。
―――
そろそろ潮時じゃないのか?まさかこのままこうして老いさらばえて行く気じゃあるまい?
「死ね」
彼は憑かれたように呟き、もう一段指を沈めた。
殺れ。
「死ね」
殺れ。
取り戻すんだ、お前自身を。
また一段指を沈めたが、女は目を開かない。眠っているのではなく気を失っているのかもしれなかった。白い顔が鬱血し始めている。
さあ、握りつぶせ。良い音だよなあ、あれは。ぞくぞく来る。
彼の内部で、それが沸々と音を立てて湧き上がって来た。沸点が近い。彼はそこを目掛けて急速に浮上してゆく。
噴き出すぞ。部屋中をそいつの血で飾ってやれ!
彼が一気に指を沈めようとしたそのとき、女が咽喉を仰け反らせ、驚いたような呼吸で息を吸い込んだ。狭められた道を空気が走り抜ける甲高い音に、彼は呼び戻される。同時に、指を開いて女の首を解放していた。
苦しそうに何度か咳き込み、女が目を開く。
「なにこれ」
なんか苦しいわ。涙目になりながら呟き、再び咳き込みながら彼を見て、一瞬動きを止める。
「・・どうしたの?」
彼女は頭を起こしたが、ショックを感じたようにそれを静止させた。やだ、ふらふらするわ。トシかなあ。まさかね。呑気に呟きながら、軽く頭を振ってそろそろと身体を起こす。
「ベジータ?」
ベッドの上で呆然としている彼の顔を覗き込み、頬に手を伸ばした。ひんやりとした小さな指先が触れ、彼は弾かれたように身体を震わせる。大丈夫?彼女は彼のそんな様子を不審そうに見守る。
「ねえったら」
目を合わせようとしない彼の鼻先を、女が人差指でつつく。彼が視線を巡らせると、大きな瞳にぶつかった。薄暗い部屋の中で、それは不思議に澄んで見える。
「何でもない」
ちょっと考え事だ。それだけ言うと、彼は目を逸らした。そうしようと思った訳ではないが、今は灰色掛かって見える透明なそれを、身体が拒否している。
「考え事って?」
あのまま指を沈めていたら、眼窩から飛び出し、その顔を二目と見られぬ見苦しい物に変えていただろう。頭に浮かんだリアルな映像を消そうと、彼は床に落ちていた小さな灰皿を見下ろす。
「貴様には深遠過ぎて解らんことさ」
スクエアに閉じ込められた縞模様の動物が彼を見上げている。見透かすようなその視線も、気を逸らすにはちょうど良かった。
「へええ、それはそれは」
女が大仰な呟きを漏らす。白く小さな顔にどんな表情が浮かんでいるのか、彼には見なくとも分かった。それはそれは、と繰り返しながら、彼女が再び横になる。縞模様と睨み合う彼の耳に、シーツが肌を擦る音が届いた。
「でも、もう遅いわよ。続きは明日にすれば?俄(にわか)哲学者さん」
毛布を引き上げながら、女は欠伸交じりに言った。彼女の夜の声は、昼のそれより柔らかく、少し低い。
「おやすみ」
心地良さ気に鼻を鳴らしながら、女が囁く。彼は身じろぎもせずに白黒の四本足と見合ったまま、皮膚にしみこむようなその声に耳を澄ませていた。