十日間戦争 ― things I'll never say (11)

 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  12  13  Gallery  Novels Menu  Back  Next

 決断すると、彼女の行動は早かった。
「父さん、ちょっと話が―」
「おおブルマ、ちょうど良い所に来てくれた」
 庭での楽しい朝食の後、ラボへ向かい、ちょうど扉から姿を現した父に声を掛けようとしたところ、彼の方からそう声を上げた。なあに。白衣の裾に付いた黒い煤汚れのようなものにちらりと目を流し、ブルマが父に歩み寄る。
「お前さん、来週から開発の方へ戻ってくれ」
「は?」
 彼女はたった今自分のほうから切り出そうとしていた事を口に出され、あっけにとられた。
「いや、急ですまんね。前々から役員達と相談して、そろそろだという話になってはいたんだが、なかなかきっかけが無くてな」
「役員?あたしそんなの聞いてないわよ」
「そりゃそうさ。お前に先行きを知らせたら今回の人事に意味が無くなる」
「人事?」
「お前さんに外交部を任せた事だよ」
 肩からずり落ちてくるコゲの尻を軽く押し上げ、彼は当然のように言った。
「お前さんはテストされてたんだ。知ってたろう?」
「―テスト?」
 彼女は怪訝そうな声を上げた。研究室の外の『社』というものに馴染ませる、という事ではなかったのだろうか。
「なんだ、気付いてなかったのかね」
 父は呟き、胸ポケットを探ってくしゃくしゃになった煙草の袋を取り出す。彼は最後の一本を取り出して咥え、空になった袋を片手で絞る。一袋がそう長くもつ訳ではないのに、どうやったらあんなに皺だらけに出来るのだろう。セロファンが丸められるかしゃかしゃいう音が意外に大きな掌に籠り、次第に小さくなってゆくのを聞きながら、彼女は黙って考えた。
「血縁で組織された会社ってのは、二代目、三代目で駄目になる所が多いんだそうだよ。役員達が心配してなあ」
 無論、野心もあるんだろうと思うがね。博士は付け足すように言い、再び胸ポケットに指を入れて安っぽいライターをつまみ出す。
「お前さんが次代としてやっていけるのか、ちょっと試してみたいというような事を言い出したんだ。もちろん儂は信じていたよ。だが彼らを納得させるには、如何せんお前にはまだ実績が足りなかった」
 確かに、彼女には未だ父が成したような偉大な発明が無かった。父の代表作は彼を科学界のカリスマとして押し立てることになったが、その事が社を牽引してゆく彼にとって少なからず有利に働いた事は間違いない。彼を見上げる従業員達の、敬意と憧憬に満ちた眼差し。彼はただそこに居るだけで、いや生存しているというだけで、十二分に彼らのインセンティブたり得た。
「幸い、儂は上手くいった。運営面での実務能力など求められる事はほとんど無かった。だがお前さんは違う。いきなり儂とバトンタッチするような羽目になれば、それこそ疫病神を見るような目で見られて―あるいは甘い汁を吸おうという連中に取り囲まれて、あっという間に息をするのもままならなくなるだろうよ」
 まあなあ、オプションが無い分不利な上に、二代目と来てる。彼らが恐がるのも解らんでもないよ。博士はぼそりと漏らし、煙草をぎりぎりまで長く咥えなおして ―口髭にダメージを与えない為なのだろう、彼は昔からそうしていた― 火を点ける。
「お前が代替わりまでにそのオプションを手にすることが出来るとは限らんだろう?試されたってのは面白くないだろうが、まあ許してやるんだな」
 彼はのんびりと言い、深く吸い込んでぷかりと煙を吐き出した。顔に沿って昇ってくるそれが目に滲みたのか、右の瞼を小刻みに閉じたり開いたりしている。
「・・で、合格だったの?」
「むろん」
「一つ訊きたいんだけど」
「なんだね」
「あたしは何を試されたわけ?」
 彼女は胸の前で腕を組み、重心を左に傾けながら父の半白髪の頭に目を遣った。彼は眼鏡を外して右目を軽く擦り、ふむ、と頷いて裸眼の視線を彼女の方に向ける。彼女はそれが珍しい光景であることに気付き、そういえば父は自分が物心ついた時から眼鏡を掛けていたなと頭の隅で考えた。
「そりゃまあ色々だろうが、一つ重要なのがある。分かるかね」
「さあ」
「信頼だよ」
「信頼?はン、お嬢様が真面目に仕事するかどうかってこと?」
「いいや。そりゃそれ以前の問題だ」
「父さん、勿体振らないで。自慢できることじゃないけど、あたしはあの部署で大した実績を上げちゃいないわ。あたしじゃなきゃ出来ない事なんか何もなかった。どころじゃないわ、ああいう事に才能のある他の誰かがやった方が、よっぽど成果が上がったはずよ。なのに、なんで合格だってわけ?」
 いいかげんな事言わないで欲しいわ。眉根を寄せてそっぽを向いた娘の誇り高い横顔を、博士は惚れ惚れと眺める。咥えていた煙草を右手指に挟んで唇から離し、彼は感心したように溜息をついた。
「お前、綺麗になったなあ」
「・・はぐらかさないで。それにあたしは昔から美人よ」
「いやいや、そりゃまあそうだろうが、何と言うかこう、ふるいつきたくなるような色香が・・」
「父さん!」
 彼女は怪しげな手つきの父を睨んで一喝する。おお、こわいなあ。大袈裟に後ずさってみせる彼の手許から灰の塊が落ち、明るいグレイの床材の上に細かく散った。肩から滑り落ちそうになった猫がにい、と鳴いて爪を立てたが、博士は慌てずにその尻を押し上げる。
「ベジータ君専用なんだな」
「・・何バカなこと言ってるの」
「仲いいんだもんなあ」
「仲良くなんかないわよ」
 ずっとケンカしてたんだから。ハイネックシャツの胸元に無意識に手を置き、一瞬だが確認するようにその場所に目を遣った彼女の行動に、博士はおやおやと気付かない振りを決め込んだ。
「そんな事はいいのよ、ふざけてないでちゃんと話して」
 薄く血を昇らせた彼女の渋面をみつめ、ふむ、と彼が頷く。
「可愛がっちゃうよなあ、やっぱり」
「父さんってば!」
「分かったわかった。トランスポートの一件なぞは大活躍だったじゃないか。お前の直属二人も、よくやったと誉めてたぞ」
「・・部下に誉めて頂けて嬉しいわね」
「それだよ」
「え?」
 博士は短くなった煙草を咥えようとして、おや、もう終いだなと呟き、顔を上げて尋ねる。
「持ってないかね」
「ないわ。残念だけど」
 それに銘柄が違うでしょ。白衣の右ポケットを探って携帯用の丸いアッシュトレイを取り出す父に、再び腕組みしながら彼女が言うと、いやあ、儂ゃ別に何でもいいんだよ、と彼はゆったりと答える。小さな金属製容器の黄色と緑のビタミンカラーは、見様によってはメランコリックに見えなくもない父の色彩とも不思議に調和していた。
「人がついて行くだけの器量があるかどうかを、お前さんは試されたんだよ。発明や開発の才能があるだけでも、人柄が良いだけでも、一生懸命なだけでも駄目なんだ。全体を眺め、それぞれの要素を活かせる形で決断を下す能力があるのかどうか、それぞれの立場に思いを馳せて使い切る力があるのかどうかだ。御本人が多少我儘だろうと、そんな事は全然問題じゃない」
 広い意味で客観性と言っていいかもしれんな。十分に持ち合わせてる人間は少ないものだがね。お前も、昔はその大多数の一人だったと思うよ。博士は、トレイに押し付けられてへしゃげた煙草に目を落とす。
「良くやったさ、お前さんは」
 彼は顔を上げて娘を見遣り、少し眩しそうに目を細めた。
「彼に感謝せんとな」
「・・なんでベジータが出てくるの」
 ベジータ君の事だなんて一言も言ってないぞ。博士は黙って笑い、アッシュトレイの蓋を閉めてポケットに仕舞った。
「ま、そういうことだ。今週中にちゃちゃーっと引継ぎをしてくれ」
「無理よ。ちゃちゃっとってね、出来る訳無いでしょ。あたしは外交部長だったのよ」
「大丈夫さ。お前の直属の二人、あれはその道のスペシャリストだからな」
「そんな事、言われなくても見てりゃ分かるわよ」
 有能な二人に囲まれ、自分は彼らにじれったい思いをさせているのだろうと何度も屈辱を感じたものだ。彼らは影に日向に、実によく彼女を支えた。今考えると危険な場面が両手の指に余るほど浮かんで来て冷や汗が出るが、それも彼らがうまくフォローしてくれたからこそ切り抜けられたと言っていい。
「じゃあ話は早いな」
 なあに、お前さんなら平気だよ。彼女の傍を通り抜けて階段の方へ向かいながら、博士は振り向きもせずに片手を上げて笑った。くたびれた白衣の背を顧みながら腕組みを解き、腰に片手を当てて彼女は小さく溜息を落とす。
「無茶苦茶言うんだから」
 彼女は腕時計を確認しつつ踵を返し、上着を取りに部屋へ向かう。階段を昇りながら小声で悪態をついたが、足取りは軽かった。



 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  12  13  Gallery  Novels Menu  Back  Next