十日間戦争 ― things I'll never say (6)

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「ママ?」
 すぐ傍で響いた幼い声に、意識が浮上した。薄く開いた瞼の隙間に鋭い光が刺さり、小さくかすれた悲鳴が漏れる。
「・・トランクス」
 ゆるゆると目を開けると、遠慮するような様で少し離れた場所に立つ息子がいた。朝陽を背負って立つその姿に、冷たい逆光の中の漆黒のシルエットが重なる。
「おはよう」
 出来るだけ静かに毛布を引っ張り、剥き出しになったデコルテをさりげなく隠しながら声を掛けた。衣類や灰が床に散乱している様子を普通ではないと感じているのだろう、彼の眉根には僅かに不安が見て取れる。だが彼女が片腕を差し伸べると、ほっとしたように近付いて来た。ひんやりとした丸い頬に指を滑らせ、柔らかな髪をかき上げると、彼は破顔し、おはよう、と挨拶を返す。
「どうしたの」
 皮膚に近い薄色で彩られた爪が彼の髪を潜り抜け、光を受けて輝いた。この場所に来た理由を息子に尋ねながら、自分の指先の控えめな美しさにちょっと見惚れる。
「おばあちゃんがね、ママがねぼうしてるみたいだから、おこしてきてあげてって。へやにいなかったから、きをさぐったんだ。まどがあいてたから、そこからはいったの。ドアはしまってたから―」
「そう」
「えへへ」
「・・?なあに」
「パパと、なかなおりしたんだね」
 父のベッドに身を横たえる母に、彼はそう言って笑顔を見せる。彼女は桜色の爪を光の中にゆっくりと舞わせ、その五つのきらめきを楽しみながら、つんとした可愛い唇から漏れた無邪気な台詞に小さく笑った。
「ふふ」
「どうしたの?」
「・・なんでもないわ」
 彼が少年に成長したとき、自分の台詞をどんなふうに思い返すだろう。少し大人びた息子の朱を帯びた顔を想像したが、それが彼の父が照れたときに見せる渋面そっくりだったので、彼女は吹き出しそうなのを堪えて毛布で顔を隠した。
 聞かせてやりたかったわね。
 ベジータは明け方、部屋から出て行ったのだ。微かな物音に目覚め、白々と薄明るい窓辺に立つ後姿をみつけた。声を掛けようとしたとき、開いた窓から爽やかな風が吹き込んできて彼女の頬を撫でた。その心地良さに薄く目を閉じ、再び瞼を上げたとき、男の姿は消えていた。
「ねえママ、おきなくていいの」
 毛布に潜り込んだ母に、トランクスが首を傾げて尋ねる。彼女は柔らかい布から顔を出し、片腕を伸ばして息子を抱き寄せた。
「今日は遅刻するわ。一緒に朝ごはん食べましょう」
 耳元に柔らかくキスして囁いた言葉に、トランクスの顔がぱっと輝く。
「お庭でね。今朝は風が気持ちいいわ」
「うん!」
 彼女が朝早く出勤して深夜に帰宅する近頃では、彼らが顔すら合わせないという日も珍しくなかった。久しぶりに母親と過ごせる事が嬉しいのだろう、普段は何かと大人ぶってみせる彼の全身から素直に喜びが発散している。
「おばあちゃんに伝えてくれる?お手伝いもしてね。ママもシャワー使ったらすぐ行くわ」
「パパは?パパもいっしょなんでしょう」
 彼は、彼女の隣の無人のスペースにちらりと目を遣り、それから視線を彼女の顔に戻しながら、明るい声で問う。
「ああ・・」
 彼女は彼の視線の軌跡をなぞるようにして隣に目を向け、そのままベッドに身を起こした。
「パパは出掛けちゃったのよ。残念だけど」
「重力室じゃないの?」
「・・多分違うわ」
 ふうん、と彼は少しつまらなさそうに鼻を鳴らし、部屋を出ようと今度はドアの方に歩き掛けて、くるりと振り返る。
「ママ」
「なに?」
「なんかキレイだよ」
「・・ありがと」
 でもママはいつだって綺麗でしょ。定番の台詞に、言うと思った、と生意気に応酬して彼はドアの外に消える。ああいうところは誰に似たのだろう、と小さな背中を見送りながらふと足元に目を落とし、彼は腓骨の出っ張りの角度まで父親似だと気付いてちょっと驚いた。
 煙草。
 起き抜けの一本を味わおうとサイドテーブルの上を見たが、そこに目的のものは見つけられなかった。制御を失った彼女の手足が弾き飛ばしてしまったのだろう、ケースが床に落ち、中身が周囲に散乱している。
「あーあ・・」
 だが拾い上げようと身体を伸ばしたとき、枕に半分埋まるような形で一本だけ無事であったことに気付いた。葉が散らないようにそっと指で掻き出し、唇に咥える。
 開発の仕事に戻してもらおう。
 出来るだけ早く。途中で投げ出すようでずっとプライドが許さなかったが、今朝の息子を見て決心がついた。人にはそれぞれ自分を最大限発揮できる分野というものがあるだろう。自分にとってのそれは交渉事ではない。しかも父に成り代わって社の頭となっても、瑣事に関わる事など現実にはないのだ。それらは各担当者の仕事であり、彼女は彼らの働きを承認し、最終的な責任を負うというに過ぎない。だからこそ、今の内に経験させておこうという事だったのだろうが―
「何とかなるでしょ」
 ベッドボードに背中を預け、勢い良く煙を吐き出した。それは空気を忙しく白濁させ、窓からシーツへと斜めに突き立つ光の柱を浮き上がらせた。
(焼けちゃう)
 自分もそんなことを気にする歳になったのだと思いながら、燦々と陽が降り注ぐ胸元に目を遣る。毛布から上半分がこぼれ、白く映える形の良い乳房には、点々と小さな痣が散っていた。マーキングのつもりででもいるのか、時々出る彼の癖だ。
(これが難なのよ)
 だが悪くない時間を持ったと思う。無理な姿勢をとり続けたことによる節の痛みはあったが―
「コミュニケーションって大切だわ」
 二口目を深く吸い込み、床に右腕を伸ばしてそこにあるはずの灰皿を手探りしながら、彼女はそう声に出していた。
 少し乱暴な気はしたが、男は常と変わらず彼女を扱った。本当に怒って力加減を違(たが)えていたら、彼女は折れたり窒息したりして無事では済まなかっただろう。
(なかなか遊び心があるのね、あいつ)
 サディスティックな言葉の低い響きが耳の奥に、視線の冷ややかな刺激が肌に甦り、身体の芯をぞくりと甘やかな震えが走る。
 それにしても―
 何故出て行ったのだろう。彼がそうするのは、大抵何か納得出来ない事がある時だ。考えをまとめたり、妥協点を見出そうとしたり、とにかく一人になって考える必要がある時なのだ。野外トレーニングかもしれないとも思ったが、時間帯が早すぎる。規則正しさを旨とする彼にしては、それは妙だ。
 月明かりの中で彼女を見下ろす瞳の中には、そんな色は見出せなかった。尤も、間断無い快楽にブレる視界でどの程度正確にそれを読み取ることが出来たか、疑問ではあるが。だが彼は少なくとも、最後は彼女をだきしめ、彼女の首筋に強く頬を押し付けながらくちづけを落とした。
(・・まあ、いいわ)
 そのうち戻ってくるでしょ。拾い上げた灰皿に煙草を押し付け、火を揉み消す。鮮やかな色を取り戻した草を踏みしめ、太陽の色で囲われた小さなゼブラが、皿の中央から彼女をみつめていた。



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