恐怖か焦燥に似たものが、彼をざわめかせていた。
確かに、偶然だ。女の運が良かったのだ。タイミング良く彼を呼び戻さなければ、彼女は生きてはいなかったはずだ。だが再び同じ事を仕掛けたなら―彼は昨夜から繰り返した自問を、再び投げ掛ける。
自分は一線を踏み越えるのか。そう、出来るのか。
女が、腐敗を待つだけの肉の塊になったらと想像してみる。彼が練磨してきたイマジネーションは、戦闘に於ける略術を組み立てる際のそれであり、常ならば余計なリアリティを一切削ぎ落として物事を簡潔に浮かび上がらせる働きを見せるが、彼には何度となく似たような経験があったので、この際の応用は難しくなかった。彼女の遺骸は、生々しい匂いをも伴って彼の腕の中で形を成す。
遠い星で自身が経験するまでは、彼にとって死は日常の些事の一つに過ぎなかった。遺骸など、今でも特別な意味を持つものではない。彼の腕の中でたった今彫り起こされたそれとて同じだ。喰えば旨いかもしれない。それ以上の感想は浮かばなかった。
だが。
もう世の中のどこを探してもあの糞生意気な姿を見出せなくなったことの、それは証なのだ。この事実が脳に達すると―
彼の目の裏を、彼女の景色が走り抜ける。
出会い。
初めて交わした言葉。
怒ると、奇妙に澄み渡る瞳。吸い込まれそうな深い色合いに気を取られ、文句の殆どを聞き逃した。
喉の奥をくすぐるような笑顔。出会った事のないそれに、何度も困惑し、目を逸らした。
その唇に、彼は幾度触れたのだろう。撫でるように擦り合わせ、ついばむように咥え、息詰まるほど深く重ねた朝、昼、夜。
ふっと力の抜けたような、あの微笑が浮かんだ。傾げた顔に、不思議な色の髪がさらさらと流れる。彼女は、幾度彼の名を呼んだのだろう。腹を立ててわめきながら。面白がって笑いながら。涙を見せながら。喘ぎながら。時に夢の中で。ただ何となく。そして彼の奥深くを溶かすような、あの柔らかな声で。
『ベジータ』
目を開くと、空が広がっていた。それは青々と澄み、所々に白い雲を抱いている。
こんな所にまで―
彼女を思わせるその色に眉をしかめ、荒涼とした原野に視線を移した。常ならばふんと鼻を鳴らしたかもしれない。だが、今の彼にはそんな余裕は無かった。
厭わしかった。認め難かった。だがはっきり解った。片膝を立て、そこに肘を預けて指で額を支える。それがひどく重いと感じて、彼は深く溜息をついた。
もう、無理なのだ。
自分は、あれを殺せない。