十日間戦争 ― things I'll never say (13)

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 ジェットフライヤが空気を切る甲高い音が耳に届き、彼は顔を上げた。
 まだ距離があるが、東から迫っている。誰であるかなど考えるまでも無い事だった。こんなところに用のある者などそうはいまい。
「何しに来やがった」
 思わず呟いてから、判り切った事を、と自嘲した。
 彼を『迎えに』来たのだ。傾いた陽が原野に落とす奇岩群の長い影に、光景は異様さを増している。西の都では、既に藍色の帳が空を覆っている頃だろう。狭い岩棚の上、背後の岩壁の影の中で、余計なことをと彼は渋面を作った。
 女は昔から、時々そうやって外出先まで彼の邪魔をしに来る事があった。たいてい、この時間帯だ。
 最初この場所に彼女がやってきたとき、どうやって彼の居場所を掴んだのだろうと疑問に感じた。地球人は皆、こんな脆弱な女に至るまで、気で相手の居場所などを探る能力を持ち合わせているのかと少なからず驚いたものだ。何のことはない、彼女が地球人の武道家を自分の男にしているからだという事にすぐに思い至り、鼻白んだが。
 夕食の支度出来てるのよ。はやく戻って来なさい。
 飯の話をすれば彼が黙るとでも思っているに違いない、乗り物から降りると開口一番、女はそう言うのだ。彼女が唇を開いてからそれを言い終るまでに何秒掛かるか、どんな表情で、どんな調子で、どんな声でそれを口にするのか、彼には正確に予想出来る。
 迫ってくる飛行音に押されるように、立ち上がった。浮き上がり、彼の指定席である奇岩の柱を離れる。今は、会いたくなかった。彼女に知られているこの場所を飛び去ってしまう事が姿を眩ませる一番の方法だったが、彼は少し考え、波頭を思わせる巨岩の、頂から腹に走った大きな亀裂に姿を隠した。音はもう、すぐ近くまで迫っている。
 何をしてる。
 彼は自らの不可解な行動に首を傾げた。間も無く女は、彼の指定席に降り立つだろう。自分はその姿を、こんな所に身を潜めて眺めようとしている。女を覗き見ようとする事は、男の本能的な行動なのだろうか。
 フライヤーが彼の頭上を横切った。夕陽を照り返しながら、ゆっくりと岩棚に下降して行く。暫くすると音が止み、女がエンジンを停止させた事が知れた。明るいオレンジの小振りなボディは、彼の居る場所からは完全に見えなくなっている。
「ベジータ?」
 女の姿もまた、岩壁のむこうに隠れて見えない。自分の名を呼ぶその声に、彼は知らず耳を澄ませていた。彼女は数度、そうして彼に呼び掛ける。いないの?だだっぴろいその場所で、女の声が反響した。
 ふと声が止み、岩陰から彼女が姿を現す。岩棚の端まで歩き、夕陽に向かって立ち止まった。
「―――」
 気付くと、息を止めて見入っていた。正面から射す陽を受け、女が輝いている。横顔は茜に染まり、細い髪は風に靡いて光の粉を振り撒く。背後に伸びる影までも光っているに違いない。彼は半分本気でそう感じ、目を細める。
 いつでも消し去れる。そう、思っていたのに。
 常に意識して来た訳ではない。彼にとってそれは、当然過ぎてわざわざ考えるような事ですら無かった。つい何時間か前までは。
 いつからだったのだろう。
 いつ、女は彼の手足をもいだのか。彼をある意味、不能に陥れたのか。気に入らない、などという生易しいものではなかった。腹の底のほうが震えるのを感じる。止めようとして力を入れると、震えは背骨を伝わり後頭部にまで達した。
 戻れないのか。
 昔の自分に。大岩に開いた亀裂の冷たい陰の中、彼は心の底から途方に暮れた。どうすればいいのか分からない。どうしたいのだか、解らない。生まれて初めての経験だった。
 生温かく彼を絡め取る何もかもから、自身を解放したい。彼は確かに、どこかでそう感じているのだ。しかしそうなったとき、彼は引き換えに差し出さなければならない。
 何を。
 信じられない思いで、彼は掠れた呻きを漏らした。自分はこの堕落した平穏を、失いたくないのだ。
 ある程度以上の知能を持つ生物なら皆そうするように、二つ以上のものを天秤に掛けて一つを選び取るなどという事は、それこそ思い出せないほど繰り返してきた。じっくりと時間を掛けたこともあれば、拳をぶつけあう一瞬で判断した事もある。だがいずれも、彼のアイデンティティを揺るがすような選択ではなかった。今、自分がそれと天秤にかけているものは、何なのか。
 俺は―
 そのとき、女がついと視線を巡らせた。彼の居る細い闇に目を留める。彼はぎくりと身体を硬直させた。見えるはずはない。そう思ったが―
「ベジータ?あんたなの?」
 女は目を凝らすような仕草を見せながら、僅かに声を張り上げた。彼は、さっさと亀裂の奥に移動しておくのだった、と後悔する。出てきなさいよ。彼女は腰に手を置き、赤く色を乗せた唇を綻ばせてふふふと笑った。
「何してたの?」
 暗がりから姿を現した彼に、女は相好を崩したまま面白そうに訊ねる。彼は眉間を緊張させ、彼女を見下ろしたまま黙っていた。
 俺だって知るか、そんなこと。こっちが訊きたい位だ。
 彼は何から何まで格好のつかない自分にむかむかしながら、小さく舌打ちする。
「変わってるわねえ」
 かくれんぼ?トランクスに教えてもらったの?彼をからかう女の下瞼がふっくりと膨らみ、細められた瞳が濡れたように輝いた。彼女はそうしたときに自分の顔に出来る、彼などに言わせればほとんど見えもしない細かな凹凸を『歳を取った』と忌み嫌うが、彼にはあまり理解出来ない。
 年々、満ちてゆく。
 歳を重ねるごと、彼の感覚を楽しませる美しい調和が彼女に積み重なって行く。彼に見えるのはその事実だけだ。吸い寄せられるように、女に降りる。右手を伸ばし、やわやわとした下瞼に親指でそっと触れた。薄く降りた上瞼の長い睫毛に施された化粧が、彼の指を押し戻そうとわずかな抵抗を見せる。
「やめて」
 皺になっちゃう。無粋な事を言い、女が細い指で彼の手を自分の頬に下ろす。彼は微かに親指を動かし、すべらかな感触を味わった。溶けるように柔らかな肌は、初めて触れた頃よりももっと、彼に馴染み良いように感じる。もっと触れたい。己が皮膚の欲するまま、彼は女の腕を軽く引いた。高所の岩棚から斜めに乗り出すようにして、彼女はその身を宙に浮く彼に任せる。触れた部分で感じる彼女のとろけるような肌の温度が、彼の芯を震わせた。
 ひんやりした耳朶に唇を寄せると、女が鼻に掛かった声で笑った。独特の弾力が好きで、彼はよくそうしてその部分を愛撫する。一度、ピアスの尖った装飾が彼の粘膜を傷つけたことがあった。ばかねえ。女は上唇を僅かに腫らした彼を見て言ったが、意識してか無意識にか、以降はあまりそうした要素の無いものを選んでいるようだった。
 唇を離すと、件の痣が目に入る。夕陽の中でよくよく観察すると、ごく小さなそれは微かにだが盛り上がり、表面に妙な光沢があった。火傷などの外傷を修復しようとして、彼女の皮膚が急速に代謝した跡なのであろう。彼らが離れていた間に出来たのか、あるいは昔からそこにあったものに彼が気付かないで来たものか。
「ふふん」
 夜が見せた妄想なのか。彼は術に掛かった自分を笑った。なあに?女が彼に身体を預けたまま不思議そうに訊ねたが、彼はもう一度鼻を鳴らしただけだった。
「ねえ、帰ろ?お腹すいたわ」
 彼らの関係に於いて『破壊』を担っているのは彼女だ。彼はそう思っている。いつもそうして場違いな事を言っては、空気をぶち壊すのだ。口さえ開かなきゃな。小さく呟いて女を離し、岩棚の上に降りると、彼は陽の色を映して赤みを強めたジェットフライヤの方に歩を進める。
「行くんなら早くしろ」
 助手席側に立ち、促した。彼女は、はいはい、と運転席に乗り込み、エンジンをスタートさせる。彼にしてみればのんびりしたその乗り物に身体を納めながら、自分はいつからかこうして当然のように女の隣に腰を下ろすようになっていたなと顔を顰めた。
 認めるしかないのだろう。
 自身の存在に付随するものとして、この女が必要なのだ。
「そうだ聞いてよ、あたし開発に戻るの。今日は外交部での仕事納めだったのよ。それが急な話でさ、父さんがね・・」
 時々笑いを混ぜながら一人で喋る女を横目に、彼は組んでいた腕をほどいて肘掛に預け、頬杖をついた。ガラスの向こう、眼下に流れる夕景を眺める。
 嫌になるほど平和だ。
 彼はそう感じて微かに眉根を寄せ、もうすっかり見慣れた景色から目を逸らした。


 2006.4.9 (連載終了)
 2006.5.21(編集後分をMENUに掲載)



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