十日間戦争 ― things I'll never say (10)

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 偶然だ。
 あのタイミングで目を覚まさなければ、彼女は一瞬で、確実に死んでいただろう。だがそうなった時の光景を想像すると、彼の後頭部は冷たくなり、掌に汗が噴き出してくる。視界が暗くなる気がするのは、部屋が暗かったせいなのか。かつての日常だった感覚が生々しく喚起され、彼の指先が怯えるように、飢えているようにぴくりと動いた。
 奇岩群を吹き抜ける風は冷たい。大地に楔を打ち込んだかに見える巨大な石柱の上で正面からそれを受けていたが、ひやりとした大気の流れが彼にはむしろ心地良かった。

 女が再び寝息を立て始めるまで彼は縞柄との睨み合いを続けていたが、やがて彼女が眠ってしまうと、静かにその小さな白い檻を拾い上げた。外からの薄い光の中で繁々観察すると、草を踏んで立つ動物の眼球部分に、黒く光る石らしいものが埋め込まれている。触れると、小さく凸(つばく)んでいる事が分かった。皿の中の絵に異様なリアリティを与えていたものの、これが正体だったのか。
「逃げたいか」
 彼はスクエアの中の動物に向かって呟いた。吸殻独特の苦い香りが強まり、鼻腔を刺激する。さっき口を吸った時の蕩けたような女の顔が脳裏に甦り、交わした唾液の甘苦い味が口中に広がった。
 彼は灰皿を毛布の上に投げ出し、覆い被さるようにして女の顔を覗き込んだ。白い頬に睫毛の長い影を落として、彼女はぐっすりと眠っている。動いた拍子、足指に当った灰皿が落ち、敷物越しに床を打つ鈍重な音が響いた。
「ブルマ」
 最初の頃は奇妙に感じたその名を、低く声に出した。違和感無く響いた自分の声に何故か微かな苛立ちを覚え、彼女の上半身から少し荒々しい仕草で毛布を取り去る。女は、んん、と眉を顰めたが、またすぐに眠りに落ちて行った。
 白い乳房のそこここに残る彼の痕跡が痛々しい。一つひとつを指先でなぞると、吸い付いた感触の記憶が彼の唇に仄かな疼きを呼ぶ。
 くそ。
 彼は女を苛むように、小さな痣に歯を立てる。柔らかな肌に顔を埋めてそれらを辿っていると、肩に触れる指先を感じた。
「痛いわ」
 半分眠ったまま、ぼんやりとした声で女が呟く。しっとりと温かな掌を背に感じ、彼は小さく身体を震わせた。
「寝かせて」
 疲れたわ。あやすように彼の身体を撫でながら、女が優しく言った。
「何とかしろ」
 粟立った肌をもてあまし、彼は息苦しく囁く。睦言だとでも思っているのか、女が低く笑った。乳房に押し当てた耳に鼓動が届く。彼は目を閉じ、そのリズムに聞き入る。
「ベジータ」
 女が、寝言ともつかない呟きを漏らした。顔を上げると、耳の傍、件の痣が目に入る。
「――」
 彼はまどろみと覚醒の狭間で浮き沈みしている女のそれに、静かに唇を寄せた。吸い付くと、彼が付けたそれらと何ら変わらぬ味がした。くすぐったい。彼女が鼻を鳴らして笑う。歯を立てると、痛がって頭を振った。やわらかく彼を押し返そうとする腕を捕え、それごと掻き抱く。
「やめてったら」
 完全に目を覚ました女が少々呆れを含んで言ったが、彼はそのまま動かなかった。そうしてじっと彼女を抱いている彼の脳裏を、敵に身体を撃ち抜かれて死んだ青年トランクスの姿がよぎる。
 たった今確かにそこに生きていて、一瞬後に骸と成り果てていた息子。何度となく目にした、彼にとってはありきたりの死の景色だった。その筈だった。だが身体の中から訳の解らない何かが噴き出し、彼はそのとき、初めて完全に理性を失った。
 あのまま殺していたら―
 腕の中の温もりに、すっと腹の底が冷えた。女はまだ眠ってはいないと息遣いで分かる。細い首筋に頬を押し当てたまま、彼は顔を上げることが出来なかった。



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