背中 (9)

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「・・さすがにお手柔らかだわね」
「そうだろうとも。まったく居眠りしそうだった」
 男は肩から彼女を担ぎ下ろして横抱きにする。しばし考える風だったが、近くにある小さな山に向かって飛び、その頂の台地に降り立った。
「ここまでだ」
「へ?」
「降りろ」
 言って彼女を降ろそうとする。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 彼女はあわてて彼の首にしがみつく。
「こんなとこで放り出されたらあたし困るわよ」
「ここならカプセルが使えるだろうが。乗り物を出せ」
「あ」
「何だ」
「―荷物忘れた」
「俺が持ってる」
 降りて見ると、彼女の背を抱いていた男の左手の中指に、ベージュ地にキャメル色の革があしらわれた小振りのブリーフケースが引っ掛かっている。
「あ、ありがとう」
 すごい。気がきくわ。ぐいと突き出されたそれを両手で受け取りながら、内心で彼女は驚愕した。
「間抜けだからな、貴様は」
「あんたが急に飛ぶからじゃないのよ」
 でもさ、と彼女は少し上目遣いでにやにやする。
「そういう、ちょっと抜けてるとこも可愛いと思ってるでしょ」
「ああ?」
 脳が腐ったのか。男は片方の眉を上げて呆れたような表情を浮かべ、小さな溜息と共にそう漏らすと、彼女に背を向けた。
「行っちゃうの?」
「当然だ。もう予定を随分オーバーしてる」
「予定ったって、どうせトレーニングでしょ」
 どうでも変更がきくんだから、もっと付き合ってくれたっていいのにさ。彼女はそう思うのだが、彼にとってそれはおいそれと変更して良いものではないらしい。
「昨日みたくガードしといてくれなきゃ、どうなっちゃうかわかんないわよ。あたしって魅力的だし」
「・・・何の話か解らんな」
 その自信過剰振りには毎度恐れ入るが。背を向けたまま呟き、彼はふわりと浮き上がった。
「ねえ」
 上昇する男に向かって、彼女は少し声を張り上げた。彼は肩越しに彼女を振り返る。
「泊まる場所決めたら連絡するから。安心していいわよ」
 あんた、あたしがいなきゃ眠れないでしょ。次第に大きくなるその声に、彼の眉間が強張った。
「阿呆め」
 何を好き勝手抜かしてやがる。つきあい切れん。吐き捨てると、彼は一気に加速した。見送る間も無く、その姿は空の彼方の点になる。彼女は、さて、とケースを開き、ジェットフライヤーのカプセルを取り出した。
 そろそろあいつのこと公表した方が良いのかも。
 充分広いとは言えないその場所で、突き出た岩にぶつけないよう注意深く機体を回転させて浮き上がりながら、彼女は考える。名前や顔を露出させるという訳ではないが、内縁の夫たる人と、彼との間にもうけた子供の存在を公にすることで、少しでも余分なエネルギーを使わずに済むようになるのではないだろうか―可能だとしても、新部門の件が落ち着くまでは待たねばなるまいが。
 夫、だって。
 あいつって、そうなんだわ。言葉にして考え、初めて実感した。本人が耳にしたら何と言うだろう。貴様を妻にした覚えはない、などと言って眉を顰めるだろうか。だがそれを言葉にしたとき、彼もまた彼女が己の何であるのかを理解するのかもしれない。
「どこ行こうかな」
 北は寒い。東は今の気分ではない。
 じゃ、とりあえず南ね。
 機首を向けつつ、前進させた。徐々に加速し、やがてまっすぐ南に進路をとる。特にあてがある訳ではなかったが、降って湧いたこの休暇を楽しもうという気分になっている。仕事をしながらである以上、すっかり羽を伸ばしてしまえる訳ではないのだけれども。
「変装用のカツラでしょ、新しい服でしょ、水着でしょ―」
 最初に調達するものを数え上げる指が、はたと動きを止める。昨日溺れたばかりだというのに、何のためらいも無くその中に水着を入れていることに彼女は苦笑した。
 タフだわ、我ながら。
 空が高い。昼間はまだまだ暑かったが、色も、もう夏のそれではなかった。だが南へ行けば、また入道雲や夕立にお目に掛かれるだろう。今年はあまり夏を楽しめなかった。どの位の期間になるかは不明だが、少しでもそれを取り返せるならラッキーだ。一人で、というのが少々物足りないのだが。
 知らないわよ。
 いい男に掻っ攫われちゃうかもね。だがそんな状況になれば、どこからともなく、場合によっては正面切って、邪魔が入るのかもしれない。試してみようかしら。それは自惚れ過ぎだろうかと思いながらも、彼女は愉快な想像に声を上げて笑う。
 眼下で、水が陽に輝いている。昨夜のあの神秘的な様は、もうどこにもない。海はそれを照らす光の色で劇的に表情を変える。
 彼ようだ、と思う。
 昼と夜とで温度の変わる男。瞳の色、指の仕草、その唇の紡ぎ出す言葉。息遣い、肌の熱さ、彼女を呼ぶ声に滲む響き。時に見せる凪いだような静けさや、嵐のような激しさも、それに似ている。
 彼女はそして、思いを新たにする。彼以外の誰も、自分を満足させることはないのだと。この海のように表情豊かな彼女の『夫』以外には、誰も。どうやって呼び寄せようか。彼女は真剣に考え、一つ、二つと案を捻り出してゆく。
 短い警告音が響き、計器類に目を遣ると、燃料切れが近いことを示すランプが点灯している。以前この愛機をカプセルに戻す際、燃料を補給していなかったことを思い出した。近くに大きな街があったはずだ。そこで補給しよう。ついでに買い物も済ませよう。男物も、少し買っておこう。
 遠く東に広がる陸地がちかちかと光っている。人工的なその輝きは、そこに建造物群があるということを示している。機体をゆるやかに旋回させつつ、控えめながらも、はや確信した勝利に彼女は唇を綻ばせた。

2005.9.3



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