背中 (6)

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 明け方、浅い眠りから覚めた。
 隣を見ると、男もまた目を開き、視線を天井に向けていた。彼女も同じ方向に視線を戻す。肌がシーツを擦る音がやけに大きく耳に届いた。なにもかもが、しんと沈黙している。
「その痣はどうした」
 肺の中まで浸入しそうな静寂の中、唐突に男が口を開く。静けさを味わっていた彼女は、そのよく響く声に、我に返る。
「何?」
「左肩の―」
 見ると、なるほど痣が出来ている。触れると、ずきりと痛んだ。
「多分エレベーターで転んだときに出来たんでしょ」
 彼女は鈍い痛みに顔を顰めながら答えた。当分は腕を露出させられない。
「転んだ?」
「ちょっとね、慌てちゃってて」
 彼女はそれだけ言って彼の左手をとり、自分の右手を絡ませて腹の上に乗せる。筋量の多いそれはずしりと重く、彼女の柔らかい腹に浅く沈んだ。本当の事は言えなかった。そうでなくとも、彼女の内が怒りと屈辱で乱れたのを彼は感じ取ったかもしれない。
「自分の体を支えられるくらいには鍛えたらどうだ」
 男が小さく鼻を鳴らし、小馬鹿にしたように呟く。
「じゃ、あんた鍛えてくれる?」
「なに」
「重力室でとか」
「・・・死にたいならそうしてやってもいいぞ」
「やあよ。あたしまだ若いんだから」
 彼は彼女のこの手の言葉に、別段茶茶を入れたり異を唱えたりしたことはなかった。若い女と言える年齢ではなかったが、彼にはそういう感覚があまり無いのかもしれない。
「・・・ガキを―」
「ん?」
「もう少し経ったら、トランクスを入れる」
 どこに、とは訊かなかった。彼が自分から息子について口にしたことに、彼女は軽く衝撃を受けた。わずかに間を置いて、彼が重力室のことを言ったのだと気付く。
「鍛えるの?」
「そうだ」
「強くなる?」
「当然だ」
 あいつは伸びる。奴の息子よりもな。死んだライバルの名を口にし、自分の子がその遺児を超えると断言する彼の言葉に、彼女はふっくらと笑みを漏らした。
「そうね。あんたの子だもの」
「そうだ。血統が違う。半分は軟弱な貴様の血でもだ」
「失礼ね、あたしの子だからあんなに頭が良いんじゃないの」
 彼は答えなかった。沈黙は、同意だ。思えば、彼らの息子は大変なハイブリッドだということになる。
「・・なんかドキドキしてきたわ。楽しみね、あの子」
 彼は再び鼻を鳴らした。彼のそれらがそれぞれにどういう意味を持つものなのかが、彼女にはもうおおよそ理解出来るようになっている。
 こうして二人で子供のことを話すなど、ほとんど経験がない。だがそうして未来に思いを馳せると、半年や一年という時間が馬鹿馬鹿しく短いものに思えた。数時間前まで、胃の中のものを吐き戻すほど重苦しかった気分が、いつの間にか軽くなっているのを感じる。
 冷静に考えると、何でもないことだったのかもしれない。例えば彼女のグラスに近づいた小さな虫を追い払った。そのときわずかに水面に指先が触れて、小さな波が立った。それだけのことだったかもしれないのだ。
(・・・悪いことしちゃったかも)
 あれは確かに粘着質で、ぞっとするほど不愉快な男だ。彼女の思い違いだとすれば(その可能性は非常に高いが)、そのこころわるさが事実を歪めて見せてしまった結果なのだろう。だがそれは彼がどうこうというよりも、彼女自身が、気の無い男にしつこく迫られることが嫌だっただけだというに他ならない。彼女は、側らの男と触れ合っている部分が温かな心地よさをもたらすのを感じながら、自分に触れて良いのはこの男だけなのだと改めて実感する。
「・・何だ」
 にやにやと自分をみつめる彼女に、彼は不気味そうに眉をひそめた。
「・・あんただけよ」
「ああ?」
 彼らの世界は、夜と朝の狭間の闇で交差する。何百回と重ねたその時間が、彼と彼女を絡め合わせ、溶かしてゆく。
「・・・ふん」
 男が、また鼻を鳴らす。その指先が、彼女の腹の上でぴくりと動いた。



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