背中 (3)

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 運転席に戻り、ハンドルの上の、真珠色に光る自分の爪をぼんやりと眺める。興奮の名残と胃の中のものを吐き戻したショックで、それらはまだ小刻みに震えていた。
 分別の無い子供なら良かった。あの男の頭をシャンパンの瓶でぶん殴ってやれたのに。床に引き倒して顔を踏んづけてやれたのに。血を吐くまで腹を蹴ってやれたのに。
「ああ、いや」
 男の、ねっとりした視線と薄い手の平が皮膚に貼り付いているような気がして、不潔なものを払い落とすように剥き出しの腕を何度も払った。
 自分は何故、女なのか。男であれば、少なくともこんな屈辱は味わわずに済んだのに。
 彼女はしかし、この歳になるまで本気でそう感じたことの無かった自分は幸せな類なのかもしれない、とも思う。彼女の秘書は、しばしばそういった話を彼女に聞かせて愚痴をこぼしている。C.C二世の地位に守られてるあんたには縁の無い話よね、と漏らした女友達もいた。
 上には上がいるもんなのよ。
 しかも、彼女はただの女ではない。今、その肩に何万という従業員達の命運を負っているのだ。逃げ場は無かった。彼女を守ってきたその地位が、今は彼女を追いつめている。
 半年、よ。
 だがこれ以上耐えられるだろうか。少なくとも今は、不可能だという気がする。研究や開発の仕事なら、どんなにきつかろうと苦にはならなかったが。彼女は、どうしようもない閉塞感に重く長い溜息をつく。
 何かが光ったのに気付き、顔を上げると、フロントガラス越しに遠く海が広がっていた。黒い水面に満月が光を落とし、銀色の道が、濃くはっきりと水平線まで延びている。美しく冷たい、神々しい月の道。
 歩きたい。
 あの道を踏めば何もかも洗い流せる。何故か、そんな気がした。彼女はほとんど無意識のうちに車を降り、フライヤのカプセルを取り出して放り投げていた。


 光の道は、波打ち際まで続いていた。
 砂の上に足を降ろすと、さく、という耳良い音がした。エアカーをサービスエリアに放置してきたな、とぼんやり思ったが、頭の芯がじいんと痺れたようになってまともに思考出来ない。なんだかもう、すべてがどうでもいいという気分になってしまっている。
 月に続くひんやりとした道に歩を進める。ビーズでデコレーションが施されたサテンのハイヒールと、ほとんど爪先までを覆うドレスの裾が海水に濡れたが、気にならなかった。満ち干きに併せて足下の砂が流れる。彼女は靴を脱ぎ捨て、それを素肌で感じた。
 気持ちいい。
 秋が近いのだろう。真夏の夜の生暖かさはもう無かった。ひんやりとした波が、砂と共に自身の中に積った汚泥をさらってゆくような気がする。体中を浸したい、と思った。あの汚らわしい男が触れた部分すべてを。あの腐ったけだものと同じ空気の中にいた自身のすべてを。
 一歩、二歩と道を進んだ。水が撫でる部分から浄化されていくのを感じる。もう少し。もう少しだ。彼女は、儀式のように厳かに、白い光に向かって進む。
 胸の下辺りまで水に入ったとき、少し大きな波が寄せてきて、彼女の足をさらった。あ、と思った瞬間にはもう水の中に引き込まれていた。立とうとして、足元に地面が無いことに気付く。岸に向かって泳ごうとするが、長いドレスが足に纏わり付いて動きが取れない。
 溺れる―。
 彼女は途端に恐怖に駆られ、もがいた。だがもがけばもがくだけ、身体は水に縛られて行く。がぼ、と水を飲んだ。腹の中まで塩漬けになりそうな辛い液体が、口から、空になった胃へと一気に流れ込む。
 いや。
 彼女の頭に、映像が次々とフラッシュする。

 研究に没頭する父の隣で、ガラクタをいじって夢中で遊んだ幼い日のこと。
 母が庭からピンクのバラを摘んできて、彼女の部屋の窓辺に飾ってくれた朝のこと。
 スクールでクラスの男の子にからかわれ、取っ組み合いの喧嘩になったこと。
 家の倉庫でドラゴンボールをみつけたときのこと。
 孫悟空との衝撃的な出会いのこと。
 間近で見た、悟空とピッコロの戦いのこと。
 初めてサイヤ人を見た、あの海辺でのこと。
 ヤムチャが死んだ日のこと。
 ナメック星で、ベジータを初めて間近で見たときのこと。
 未来からやってきた彼女の息子が、衝撃の未来を告げたときのこと。
 トランクスを産んだ日のこと。
 消息を絶っていたベジータが、彼女の元に戻って来た朝のこと―。

 ベジータ。
 助けて。
 恐い。
 死にたくない。
 ベジータ――
 水中で意識を失う瞬間、水面に迫る影がぼんやりと狭まりゆく視界に映った。



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