背中 (5)

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 自室に引き揚げる途中で、彼女は風呂場の脱衣所にバッグを忘れたことを思い出した。放っておいても特に問題は無いのだが、何となく引き返す。
 向こうから、薄明るい廊下を尖った人影が近付いて来た。彼は彼女が出掛けた時と変わらない様子で、この男には珍しくゆっくりと歩いてくる。
「出掛けてたの?」
 彼女は、普段この時間帯には自室にいる彼が、一階へと続く階段のある方から廊下を進んできたことを少し不思議に思い、声が届く距離に近付いた彼に問いかけた。
「散歩だ」
 男は立ち止まることなく進み、彼女の方を見ようともせず、短く答えた。
「へえ、珍しいわね」
 この男がその行為の名を知っていたことへの驚きを含んで、彼女は傍を通り過ぎて行く彼を小さくからかった。彼はそれには何の反応も示さず、歩も緩めない。彼の起こした微かな風に、潮の強い香が混ざっていることに気付いたのは、立ち止まっていた彼女自身が再び歩き始めるのと同時だった。
「ベジータ」
 彼女は再び立ち止まり、彼を顧みてその名を呼んだ。男は一瞬足を止め、肩越しに僅かに彼女を振り返ったが、彼女が口を開くのを待たずに再び歩き出し、上階へ続く枝道に姿を消した。
 根が生えたように、彼女は動けなくなった。溺れ、気を失いかけたとき、水面に黒い影が迫ったことを思い出す。
 あれが彼だったのだとすれば、埋まらなかったピースのすべてがあるべきところに収まる。
 靴を失ったのは、波打ち際で脱ぎ捨てたから。
 目を覚ましたときコクピットにいたのは、彼が彼女をそこへ運んだから。 目がひりついていたのは、海水に洗われたから。 水に入ったのに身体が濡れていなかったのは、彼が彼女に与える熱でそれが乾いたから。 衣類の手触りに違和感があったのは、海水に晒されたから。 彼女が今、傷一つ負わずに生きているのは、彼が彼女を死の淵から引き揚げたから。
 他ならぬ彼が、そう望んだから―
(あのひと―)
 自分を、ガードしていたのか。信じ難いが、あのタイミングであの場に現れたのだ。まさか「散歩」中の偶然ではあるまい。
 そして、彼が今夜そうする理由など一つしか無い。ならば、いつから、などとは考えるまでもなかった。彼女が着飾って彼以外の男と食事していた時も、その男と身体を密着させんばかりにして踊っていたときも、ねっとりと口説かれていたときも、彼は彼女の傍にいたのだ。建物の外ではあったのだろう。だが少なくとも彼女の、彼に言わせれば微弱過ぎる気を感じ取れるだけの距離の内に。
 知らず、走り出していた。
 自制の利く男だった。くだらん。そう言いながらも、彼女の領域は決して侵さない。彼女が彼の領域を大切にするのと同じように。
 大抵のことを自分の思い通りに出来る力を持つあの男は、どんな気持ちで自分を抑えたのだろう。立ち入ってはならない場所に踏み込まないように。彼女の生きる世界を、壊さないように。
 昇降機の扉が開くのをじりじりしながら待ち、廊下へ飛び出すと、自室のある方へと遠ざかる背中が見えた。彼女は物も言わずに走り、彼の後に続いて部屋へと滑り込む。
 彼女がいることに気付いていない筈はなかったが、男は振り返らないまま奥の窓際まで進み、そこで立ち止まった。月は既に沈んでおり、遠く広がる夜景が灯りの無い室内に光を投げている。
 彼らが敵同士として出会ってから、十年近くが経とうとしていた。
 この背に、幾度出会っただろう。物言わぬ、雄弁な背中。怒りも寂寞も、言葉にはしない。だがその背は、彼のそうした内側を痛いほど彼女に伝えてきた。壁を越えようと苦しんだ時も。ただ一人の同胞を失った夜も。そして、この今も。
 そっと近付き、後ろ姿に手を伸ばす。
「触るな」
 低い声が響く。彼女は、打たれたようにびくりと身体を震わせた。
「部屋へ戻れ」
 ああ、殺されてもいい。
 本気でそう思った。もしもこの男が自分にそれを与えるのなら、受け入れよう、と。彼女は一歩を踏み出し、彼を後ろから抱いた。男は、石のようにじっと動かない。だがその熱は、彼女の中に流れ込んで来た。かれらは薄い布越しに、肌と肌で言葉を交わす。
 潮の匂いがする。
 胸の中にそれを吸い込みながら、自分が何故女に生まれたのかを理解した。至極単純だ、と思った。



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