背中 (7)

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 朝になって秘書が電話でもたらしたその知らせに、彼女は受話器を取り落とした。件の男が重傷を負ったというのだ。
『昨夜、宿泊中のホテルの非常階段から転落されたんだそうです。酔っ払って大きな声で喚いていたとか、言い争う声が聞こえたとか、情報が交錯してます。搬送先は・・・』
 あわただしい遣り取りのあと、電話を切ってテレビをつけた。どの局もそのニュースで持ち切りである。彼女は片端から新聞を広げた。まさかとは思うけど。だがどの紙面にも、逆立った黒髪の男の目撃情報は載っていないようだった。
「知らん」
 重力室から出てきた男は、何か知らないかと訊ねる彼女に、それだけ言ってテーブルに着く。
「何故俺に訊く」
「それは」
「貴様は何か、この俺が嫉妬に狂ってそんな出来の悪い餓鬼のような真似をしでかしたとでも言いたいのか」
 水のボトルを二本空にした後、そう言って男は彼女を睨み、口の片端を持ち上げた。
「ええ?」
「そんなこと・・」
「期待に添えなくて悪いんだがな、貴様がどこで誰と何をしようと俺には何の関係も無い」
 昨日の今日で、よくそんな説得力の無い言葉を吐くものだ、と思う。
 だが、彼の言葉の虚実を彼女がはっきりと感じ取れるようになってきたのは最近だった。最初の頃は、期待してはいなかったというものの、この男の吐き捨てるこの種の台詞に、多少なりとも傷つけられたものだ。
「第一、俺がそんな不完全な仕事をするわけがないだろう」
 手の平ほどの大きさの白くて丸いパンを立て続けに五つ飲み込み、彼は続けた。自身がソーセージに突き立てたフォークの先が皿に擦れる嫌な音に、少し顔を顰める。
「やるんなら、息の根を止める」
 事故だろう。素晴らしい運動神経と自己管理能力だ。そんな完璧な男を長に戴く組織なら、この先もさぞかし成長するだろうよ。
 ソーセージを何本か串刺しにし、一気に頬張る。入口が小さいのに、よくあんなに入るものだ。ぱりぱりと分厚い皮を咀嚼する音を聞きながら、彼女はほとんど感嘆する思いでその様子を眺める。
「で」
 肉を飲み込み、グレープフルーツジュースのグラスを手に取って次の獲物に視線を流しながら、彼は言った。
「貴様、こんなところにいてもいいのか」
「は?」
「そろそろ嗅ぎ付けられる頃だろう」
 その言葉が終わらない内に、ダイニングの電話が鳴った。近くでベンジャミンに水をやっていた彼女の母が、受話器を上げる。
「ブルマさん、『西の都スポーツ』の記者の方からお電話ですよ」
「いないって言って!」
 まあ、どうなさったの。のんびりと首を傾げる母を急かし、電話を切らせた。だが受話器を置いた途端に、それは再びけたたましく鳴り出す。手を伸ばす母を制し、彼女は窓に駆け寄った。慎重に身を隠しながら外を伺うと、玄関前にカメラやマイクを持った人だかりが出来ている。
「マズいわ」
「女が絡んでるほうがニュースとしての価値は上がるだろうからな」
 まったく、地球人は下世話だ。青くなって呟く彼女に男が投げた言葉には、どこか面白そうな響きがあった。彼女の脳裏にゴシップ誌の表紙を飾る自分の写真と、『トランスポート財閥二世自殺未遂!!C.C令嬢との痴情のもつれ?』という文字が躍る。
「ね、ベジータ」
 ポタージュスープを飲もうと苦戦している男の元に戻りながら、彼女は甘えるような声を出した。ここのところ随分とましにはなったが、彼は重度の猫舌であった。かつて所属した軍で供給された食事には、冷まさねばならないほど熱いものは無かったのだという。遠征先で口にする携帯食は無論のこと、勝手に調達する食料も同様だった。
「デ、デートしよっか」
「断る」
 男は即答し、そろそろと液体を口に運ぶ。まだ熱かったらしく、含むや否や、水のボトルに手を伸ばした。
 この手のものは冷ましてから出せ、といった台詞は一度も聞いた事がない。食事に注文をつけるという習慣が無いのか、あるいはそれを口に出したら負けだとでも思っているのか。普段は彼にとっての適温で出すように設定してあるが、スープと格闘する様子が面白いので、彼女はたまに設定ミスをする。
「そんなこと言わないで・・あんただったら、あの人たちに見つからないようにここを出られるでしょ?」
「造作も無いな」
 ええい、まどろっこしい。そう言って男が投げ出したスプーンとスープ皿を引き寄せ、彼の隣に腰掛ける。すくい上げた液体に息を掛けて冷まし、唇で温度を確認し、充分にぬるくなったそれを彼の口元に運んでやりながら、彼女は更に甘えた声を出した。
「ねえ・・あんたにしか出来ないのよ。車やフライヤーじゃすぐみつかっちゃうわ」
 男は差し出されたスプーンに視線を遣り、それから目の前にある彼女の顔にそれを滑らせ、再びスプーンに戻した。もう一押しだ。彼女は睫毛を伏せ、消え入りそうな声で、囁く。
「あんただけなの」
 男は、伏目になった彼女の顔にしばし視線を定めていたが、やがておもむろにスープを口に含んだ。陥落である。彼女はここを離れる当座必要な荷物などについて、早速考えを巡らせ始める。
「食い終わってからだ」
「ああん、ベジータ大好き」
 彼女は食事に戻る男にしなだれ掛かり、頬に軽くキスした。食事の邪魔をするな。うるさそうに彼女を押し戻す男の言葉に素直に従い、しばらく戻らない旨を母親に伝え、留守中の息子の事を頼むと、彼女は荷物をまとめるために部屋を出た。



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