背中 (4)

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 目を開くと、フライヤーのコクピットにいた。
 衣服も髪も、潮風に湿ってはいるが、濡れていない。身体にも特に異常は感じられなかった―眼球が少しひりついている他には。
(あたし―)
 溺れたはずだ。死を、思った。だがどうやら生きている。
 月は静かに、海と交わり始めていた。彼女は遂に月へと繋がった水上の道を眺めながら、懸命に考える。夢でも見たのか。
 身体から、強く潮の香りがする。開いたコクピットで海風に当った位で、こんなに強く移るものなのだろうか。泳ぐ以外の目的で海を訪れたことなどほとんどない彼女には、知る術が無かった。
(・・・なんか訳分かんないわ)
 夢か、幻覚か。今ここで自分がこうしているということは、少なくとも溺れて死に掛かった記憶が、そのいずれかに刻まれたものだということは間違いないのだろう。だがいずれであるとしても、どこまでが現実で、どこからがそれらだったのか見当もつかなかった。既に一服盛られていたのかも知れない。
(最低)
 あの下種も。そしてそんなものを組み伏せる力さえ無い、今の自分自身も。
 見てなさいよ。
 時が来たら、あれにいやというほど思い知らせてやるのだ。自分が何をしたのか。何をしようとしたのか。彼女が、誰なのか。
 深呼吸し、コクピットの扉を閉める。ペダルに足を乗せて、気がついた。
 靴―
 裸足なのだ。機内を探し回ってみたが、それはどこにも見当たらない。彼女の脳裏に、再び不確かな記憶がよぎる。
 脱いだ。波打ち際で。
 靴の中に砂が入り込んだ不快な感触がはっきりと甦る。洗い流し、足元の流れを素肌で感じたいと思った。靴を脱ぎ捨てた時ほとんど意識していなかったせいなのだろう、状況をはっきりと覚えているわけではないのだが、足下を砂が撫でてゆく心地よさは忘れていなかった。
 再び開閉ボタンを押し、流木の欠片や貝殻などを踏まないように注意しながら機外に降りる。裾をたくし上げて水際まで行こうとしたが、砂浜の奥まったところにフライヤーを着地させていたため、素足で辿り着くにはいささか遠く感じられた。角張った小石や、その他の危険なものが彼女の行く手を阻んでいる。
 いいわ。
 どうせもう使い物にはなるまい。素足でペダルを踏むのは少々痛いだろうが、離着陸以外で使用することは普通ないのだ。コクピットに戻り、膝から上だけを機内に入れて腰掛け、足の砂を払い落とす。
 ということは、少なくとも靴を脱ぐあたりまでは現実なわけか。
 だとすれば、よくここまで無傷で歩き抜いたものだ。足裏の皮膚に手指の先で触れて傷が無いかを確かめながら、彼女は自分の運の良さにあきれかけ、待てよと首をかしげる。
 ―違うわ。
 眼下に広がる危険な世界を見下ろす。フライヤーが踏みしめている砂土の上に広がるおびただしい大小の障害物を、意識の無い、またははっきりしない状態ですべて避けて通ってきたことを、運の良さだけで片付けるのは無理があるだろう。
 やはり自分はずっとこのコクピットにいたのかもしれない。全ては頭の中で作り出された出来事で、靴が見当たらないのには何か別の理由があって―
「・・帰ろ」
 ここでこうして考えたところでまともな答えは見出せまい。一旦は死をすら近く感じたのに、傷一つ負わなかったのだから儲け物だ。それに、早く家に帰ってべたつく身体を洗い流したかった。彼女は扉を閉め、エンジンを掛ける。波が砂を洗う以外に音の無い海岸に、マシンが目を覚ます力強い音が響いた。


「あらブルマさん、お帰りなさい」
 リビングに顔を出すと、ソファに腰掛けて雑誌をめくっていた母が彼女を出迎えた。テーブルの上では、淹れたてなのだろう、紅茶が芳香を放っている。
「いかが?」
 母は彼女にも紅茶を勧める。彼女が頷くと、ゆったりと立ち上がりダイニングの方へ足を運んだ。それを尻目に、ブルマは廊下に出て、一番手近にある二階奥の風呂場に入る。寛ぐ前に、まずはべたつく肌を何とかしたかった。
 衣類を脱ぎ、手触りが妙なことに気付いた。全体的に、どことなくごわついているような気がするのだ。
 やっぱり潮風が良くなかったんだわ。
 彼女は、母が自分の為に仕立てさせたドレスのデリケートな布地を撫でて、ちょっと申し訳ない気分になった。
 さっと湯を使い、脱衣所のチェストから新しい白のバスローブを出し、それを羽織ってリビングに戻ると、ちょうど母がキッチンの方から小さなティーポットとティーカップをトレーにのせて運んでくるところだった。彼女はそれらをテーブルの上に置き、ポットからカップにお茶を注ぐ。
 ブルマは進んで紅茶を口にする方ではない。自分で淹れておいしいと思った例(ためし)がないのだ。だが母がその白くふっくらとした手で注いでくれるそれは、とても彼女と同じ道具や材料を使ったとは思えないほど、いつも美味だった。
『紅茶はね、心を込めて淹れるんですよ。そうすればお茶が応えてくれるの』
 うまく淹れられない、と腹を立てる幼い彼女に、母は何度でもにこにことそう教えた。言われたとおりにしているのに、何故かうまく出来ない彼女を、こうも言って慰めたものだ。
『別にいいじゃないの、ブルマさんは綺麗だし、何だってお出来になるんだから。苦手なことがあった方が可愛いですよ。ほら、おめめもお口も丸くてこんなに愛らしくて・・ほっぺなんてマシュマロみたいよ。どうしましょう。ママそのうちブルマさんのこと食べちゃうかもしれなくてよ』
 口をへの字に曲げて目を吊り上げている負けず嫌いな彼女も、この母にそう言って髪や頬にキスされたり、あちこちくすぐられたりしていると、終には笑い出してしまったものだった。急にそんなことを思い出し、彼女の視界が白く滲む。学校でクラスメイトから妬み混じりの嫌がらせを受けた日も、世の中の理不尽に憤った日も、悲しいことがあった夜も、家に帰れば、母が笑って出迎えてくれた。そして、きっと嫌な日として記憶に残り続けるだろう今日という日にも。
 疲れてるんだわ。
 ローブの袖で、そっと目元を押さえる。涙が滲みて、彼女は目がひりついていたことを思い出した。そういえばさっき風呂場で鏡を見たとき、少し充血しているような気がしたのだ―
「ね、ブルマさん、このお花を御存知?」
 母が彼女の隣に腰掛け、手にした雑誌の写真を指し示した。朱色に少し黒を混ぜたような渋い色合いの薔薇の顔が、大写しになっている。
「ブラック・ティーって言うんですって。オリエンタルな雰囲気で素敵でしょう。ママ今度はこれを育ててみようと思うの」
 うっとりと目を輝かせながら、母は溜息混じりにそう言った。
 不思議なひと。
 いつまでも瑞々しくて、少女のようで。でも彼女はいつまでもこの母の小さな赤ん坊だ。六歳になる息子の母親でもある彼女は、最近になって、この母の底知れぬ深みと大きさを強く感じるようになっていた。



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