実際、彼女の肩書きを分かっていてここまで露骨な真似をする男もそうはいなかった。
みつめる。口説く。テーブルの上で、彼女の白い手にそっと触れる。その程度の事であれば、むしろ彼女の美容に貢献した。世間的には独身の(その上資産家である)魅力的な彼女にとって、その種のアプローチは日常茶飯事であり、栄養補助食品を口にする程度のことでしかない。
だがこの男はどうだ。
肩を抱く。その手を腰に流す。ダンスの相手を務める彼女の首筋に偶然を装って唇を押し付ける。高級な品を使っているはずなのに、何故こんな安っぽい匂いがするのだろう。テーブルの向こうから、熱っぽいつもりの視線を送ってくる男から漂う品の無い香りに、彼女は微かに眉を顰める。二人だけなのを良いことに、この男はこの日やりたい放題だった。
「失礼」
一言断り、彼女は煙草を取り出す。一本咥え、ライターを手に取ろうとしたとき、目の前に火が差し出された。
気障ね。まるで男娼だわ。
内心毒づきながら、彼女はにこりと笑い、差し出された相手の右腕に自分の右手を軽く置く。
女みたいな手。美しいと表現されるのだろうその手に、彼女は嫌悪を顔に出さないようにしながら視線を定め、火に煙草を近づける。吸わないくせにどうしてこんなものを持っているのだ。決して趣味が悪い訳ではなく高価な筈の金のライターが、てらてらと薄っぺらな光を放つ。
「どうも」
火をつけ、礼を失さない程度に素早く顔を離しながら、彼女は静かに煙を吐き出した。最初の頃は見せなかった粘着質な表情で、男は三文小説のような台詞を吐いて彼女を褒める。ありがとう。口角が下がらないように細心の注意を払いながら返し、彼女は無骨な手を思った。
時に白い手袋に隠される、身体の割に大きな手。壊し、殺し、奪う為に創り上げられた手。だが彼女を傷つけたことのない手。夜毎彼女の肌を滑る、彼そのものにも似た、その手。
「ブルマさん?」
男の声に、我に返る。
「ごめんなさい、ぼんやりして」
笑顔を作り、それを男に向けたとき、客席のあちこちから拍手が起こった。見ると、奥に設けられた一段高いステージに、黒いドレスの女性歌手が上がるところだった。重厚なピアノの音が響き、低い、ハスキーな声が主旋律を奏でる。ジャズ―だと思う―には詳しくない。だがかなりの歌い手であることは彼女にも分かった。
「御存知ですか。『バードランドの子守唄』ですよ。彼女上手い。クリス・コナー張りですね」
不意に近付いてきた顔に思わずぞっと鳥肌が立つのを自覚しながら、男の耳打ちに彼女は軽く二、三度頷き、曖昧に微笑んだ。
ホントいいわ、彼女。あんたさえいなきゃ、あたし楽しんでたと思うわ。
店内は、歌と演奏で他の音がかき消されている。煙を吐き出す振りをして顔を背けながら、彼女は小声で呟いた。そして視線を戻し掛けたとき、彼女は見た。
一組の男女が、鏡に映っている。紫色の髪の女は、こちらをみつめている。男が彼女の飲み物の上で右手を二振りする。グラスの小さな水面が波立つのが見える。女の、驚き、目を見開いたまま凍りついた、その表情―
この男―
彼女はそ知らぬ顔で歌手を見遣る男に、ゆっくりと顔を巡らせる。後頭部に、眉の上辺りに、ひんやりとした感覚が降りてきた。視線に気付き、男が彼女に目を戻す。自分を凝視する彼女の顔を見て驚いた様子で、椅子の上を後退った。
あたしを―
何だと思っているの。自分の膝頭が、がくがく震え始めるのが分かった。怒りと屈辱で、視界が白くなる。睡眠薬か。あるいは媚薬の類なのか。どちらにしても、この男が卑しいけだものであることはもう間違いなかった。
「ごめんなさい、急に気分が悪くなってきましたの。今日は失礼させて頂くわ」
やっとのことでそれだけ言うと、瘧(おこり)のようにがたつく膝を押さえ、何とか立ち上がる。送りますよ。出口に歩を運ぶ自分に追いつき、そう言って肩に触れた手を振り払うのを、抑えることは出来なかった。
「結構ですわ、お気遣い頂いてありがとう」
笑顔を作る余裕は無い。これ以上この場に留まって、この男を殺さないで済ませる自信も。
彼女は呆気に取られて立ち尽くす男に背を向け、飛んできたボーイが開いたエレベーターに、大股で乗り込んだ。扉が閉まった瞬間、細いヒールが足の震えにバランスを崩し、横倒しになる。派手な音を立て、壁にしたたか頭と肩を打ちつけた。開いた扉の向こうでエレベーターを待っていた年配の女性が、驚いて彼女を助け起こす。礼を言いながら、惨めな自分の姿に唇を噛んだ。