蜜月―烏龍の憂鬱 (7)

 1  2  3  4  5  6  8  Gallery  Novels Menu  Back  Next

「楽しんでたでしょう、あんた」
「ほう、妬いたか」
「何言ってんのよもう、ばかね」
「豚だと思わなけりゃそれなりだ」
「やりすぎよ、可哀想じゃない」
「上は良く出来てたな、手本にさせてやったんじゃないのか」
「あら、妬いてるの?」
「そうやって死ぬまで自惚れてろ、馬鹿め」
 男女の交わすささやきが聞こえる。女の密やかな笑いが、それに絡む。
(・・生きてる?)
 細やかな雨音が、少し距離を置いて耳に届く。瞼を開くと、ベッドの足元、人参色のサークルラグの上に投げ出された自分の丸い掌が見えた。
「昔ね、身代わりを頼んだことがあって」
「身代わり?」
「たまには役に立つ事もあるのよ、あの変化」
「碌でもない事にしか使わんさ。なあ?豚」
 四つ這いになり、可能な限り姿勢を低く保ったままそろりそろりと後退っていた烏龍は、少しボリュームを上げて響いた最後の言葉に、びくりと固まる。
「あたしクロゼットの中に居たのよ。知らなかったでしょ」
 男は、ベッドボードに凭れていた。それは黒いレザークッションでカバーされているのだが、他の調度とのバランスがとれておらず、どことなく違和感があるように思える。何でも深読みしたくなるのは、この男女の蜜月の濃度が傍目にもそれだけ高いという事なのだろうか。幸いに、と言うべきだろう、今は彼らの着衣に乱れは無かった。
 ブルマは、男の脚に上体を預けて寛いでいる。覗いてたのよ、結構面白かったわ。彼が立てた膝の上に顎を乗せ、彼女はそう言って楽しそうに笑った。
「な、なんで」
「少し前に帰って来てたの。そしたらベジータがさ、ちょっと面白くなりそうだから隠れてろって言うわけ。でね、しばらくしたらあんたがノコノコ現れて」
「ぐ・・・」
「で?何しに来たの?わざわざ窓から」
「へ?あ、え・・えーと、その」
「これだろ?貴様の用ってのは」
 言い訳を探して目を泳がせる烏龍の方に、男が右腕を差し伸べた。指先に、小さな青い布切れが引っ掛かっている。
「欲しけりゃここまで取りに来い。脱ぎたてだぞ」
 男は片頬を持ち上げてにいっと笑い、それからゆったりとしたさり気ない仕草で ―まるで煙草を一本やろうかとでもいった調子で― その青布の縁を口の端に咥えてみせる。
(えっ)
 てことは、ブルマのやつノープァ・・・
 そうなると、一見して緩みの無い服装が却って猥褻だった。それにしてもいつの間に?気絶している間にだろうか。それとも彼が入ってくる前、既に、か。
「ちょっと、何してんのよ」
 返して。ブルマは少し慌てた様子でベジータの口元に手を伸ばしたが、男はさっと上半身を仰け反らせ、それを彼女から遠ざけるべく、再び指先に引っ掛けて腕を掲げた。
「お前には博愛精神ってものが無いのか?こんなものの一枚や二枚」
「もう・・信じられない!」
 ブルマは吹き出し、彼の手先に飛びつく。
「返しなさいってば!こら!」
 彼女のミニスカートの裾に目を遣り、男が卑猥な笑みを浮かべる。
「下品な女だ、見られても知らんぞ」
「もう、バカ!下品はどっちよ!」
(・・あほくさ・・・・・)
 ゴングは鳴ったらしい、ジャブの始まったリングから離れるべく、烏龍は再び後退を開始する。おい、どこへ行く。いつそう呼び止められるかとびくびくしながらであったが、男は彼という玩具に飽きたのか戯れに没頭しつつあるのか、拍子抜けするほどすんなりとパーテイションの後ろまで退却することが出来た。
「さ、さいならっ」
 緊張の名残か手足に力が入らないが、構っていられる場面ではない。彼らの姿が衝立のむこうに消えるや、これぞ火事場のくそ力とばかり、烏龍は脱兎のごとく駆けた。窓に向ってダッシュしながら(ああ、最初からそうしておけば良かった)、頭の中に変化のバリエーションを展開する。この際筋肉疲労は考えまい、命を拾うのが先だ。鳥か、虫か―
「ああん」
 背後から追いかけてきた色っぽい声も、彼にブレーキをかけさせる事は無かった。
 よし、コイツだ!
 彼は手摺にタックルしながら、揚羽蝶に変化する。蝶ならフラッピングの回数が少なく、筋肉をあまり使わないで済むだろう、とやっぱりセコい事をひらめいてしまったのだ。彼がようやくその選択のマズさに気付いたのは、本降りになっていた雨の中に飛び出した後であった。



 1  2  3  4  5  6  8  Gallery  Novels Menu  Back  Next