蜜月―烏龍の憂鬱 (3)

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 目的のバルコニーに辿り着くまでには、幾分手間取った。
 最初は蛇に変化(へんげ)してよじ登るべく挑戦したのだが、よく考えると彼は蛇の身体などちゃんと観察した事が無く、腹側の詳細な構造が分からなかった。ならばと今度は鳥に変化してみたが、これは翼の扱いが難しく(要するに胸筋の力が足りないのだ)、すぐにはその高さまで飛べるほど上達しそうにない。外見の変化通りに身体能力が向上する訳ではなかったため、結局彼は一旦屋上まで上り、ヤモリの姿で壁伝いにちょこちょこ降りて来るしか無かった。
 彼女の部屋に足を踏み入れ、変化を解いた頃には、陽は薄雲を通して既に傾きかけていた。
(早くしねえと)
 もう少ししたら部屋の主が戻る時間だ。こんな場面で見つかったら、どんな目にあわされるか知れたものではない。
(えと、確かクロゼットは窓の反対側だった・・かな?)
 であれば一見簡単そうなのだが、久しぶりに忍び込むせいで記憶が曖昧なことに加え、この屋の女主人は模様替えが好きと来ていて一筋縄では行かない。ブルマだけではない、外出している隙に自室が勝手知ったる場所でなくなる魔法にいちいちうろたえていては、C.Cで平和に暮らして行く事はできないのである。
 先月の犠牲者はベジータだった。
『男の子だからシックなほうがいいかしら』
 だの、
『やっぱりこっちの上品なピンクなんかも、春らしくて素敵だわねえ』
 だのと色見本にうきうき話しかける夫人を前に、烏龍は背中を嫌な汗で湿らせたものだ。よした方がいいと止めてはみたものの、当の本人は、あらどうしてかしら、とおっとり首を傾げるばかりで話にもならない。
『放っとけばいいじゃねえか、あいつにそんな美的センスなんかありゃしねえって』
 < 部屋の短い廊下を抜けると、ベビーピンクの洪水であった。>
 なんて有名な小説の出だしみたいな事になったら、全員ベジータに嬲り殺しにされるかもしれない。そう考えてかなり必死で説得する彼に、夫人は
『まああ烏龍ちゃん、それは違うと思うわ。ベジータちゃんだって綺麗なものが好きなのよ』
 その証拠に、彼はブルマさんと恋に落ちたじゃないの。と頓珍漢な事をのたまって、うっとりしてみせるのである。
(・・・あのオバハンは無敵だよ)
 結局その“上品な”色よりも少し落ち着いたコーラルピンクでクロス類の発注が掛けられ、次の週末には、どこもかしこも真っ白なファニチャ達と共に搬入が完了してしまった。当のベジータがこれといって反応を示さなかったので、流血騒ぎにはならなかった訳であるが (いやひょっとして気付いていなかったのかもしれない、『どうかしら、素敵でしょう』と夫人にまとわり付かれても、『何の話だ?』と冷ややかに一言返しただけで取り付くしまもなかった)。
 せめて逆にすりゃ良かったのによ。
 濃色の家具に渋緑を組み合わせた部屋の中を見渡し、白とピンクに彩られた男の部屋を引き比べて、彼はちょっと肩をすくめる。そういえば冬にこの部屋を弄った時、彼女はオリエンタリズムにどっぷり嵌っていた。よくもまあ、ああ次から次へと気分が変わるものだ。彼は夫人の気紛れに溜息を吐き、その無双の天然ぶりに改めて畏れ入る。
(こっちが南だから・・てことは、あっちか)
 見慣れない新しい家具類や、外が薄く曇ってきていたせいもあってか、どことなく東洋の深い森を思わせる雰囲気に圧倒され、うろうろ、きょろきょろしながら足音を忍ばせて(彼の癖だ)背高の衝立に近付く。その向こう側の陰に、家具の黒っぽい脚と角型マットレスの端が確認できた。ベッドなのだろう、シーツらしき白いリネンが陰の中で深々と襞を描き、縁から斜めに垂れ下がっているのが見える。
 相変わらず寝相の悪いこった。
 と口を開きかけた、まさにその時である。
(い?)
 木製のパーテイションに施された奇妙な仮面の透かし彫りの向こう、人肌とおぼしきものが見え隠れしている事に気付いた。仰天して立ち止まり、思わず口を両手で固く塞ぐ。
(出掛けてるはずじゃ・・)
 だが、それが昼寝しているブルマで、目を覚ました彼女にみつかって酷い目にあわされて、であったほうが彼はどんなに幸せだったか知れないのだ。目を凝らし、状況が把握出来てくるにつれて、彼は血の気が引いてゆくのを自覚しないではいられなかった。
 彼女の白いそれとは違い、そこから窺える肌は幾分黄味掛かっている。そしておそるおそる視線を移動させてゆくと、その先で枕の上にこぼれているのは彼女の紫ではなくて、布を刺し貫かんばかり硬く尖った、漆黒だったのである。
(げえっ)
 身じろぎの気配に続き、微かな吐息が耳に届いて、烏龍は凍りついたまま総毛立った。どうしてこういう可能性に思い至らなかったのだろう。数分前の自分を呪いながら、全身が小刻みに震え始めるのを止められない。
 と、とにかく、出ねえと。
 彼はがたつく膝を掌で押さえ、どうすれば命永らえる事が出来るだろうと忙しく頭を働かせた。この後彼が取った行動は利口だとは言えないかも知れないが、誰がそれを嗤えるだろう。生きるか死ぬかの瀬戸際で、彼は必死だったのだ。
 どうか気付かれてませんように・・・!
 目新しいものを見て回る間に、偶然にも彼は次の変身が可能になるだけの時間を稼いでいた。さっきのヤモリに戻って退散するもよし、ハエにでも化けて、よろけながらでもバルコニーから飛び立ってもよかった。
 だが恐怖でハイになった彼の脳内を占めるのは、どうやって出入口扉まで辿り着こうかという、その一事だけなのであった。解除ナンバーは知らなかったが、施錠は誰にでも可能である。窓から入って、扉から出てゆく。元々そこが施錠されていたなら、原状を回復させて。それで完全犯罪の一丁上がりだ、と計画していた彼の頭には、それ以外の脱出ルートが浮かんで来なかったのだ。そして男が横たわるベッドの足元を通り抜けない限り、自由の天地へと続くあの扉まで辿り着く事は出来ない。
 やるしかねえ。
 南無阿弥陀仏を心で唱え(いつブディストになったのだ)、彼はこの男の前で一番安全だと思われる姿に変化した。ある意味これが一番危険な姿だ、という事にまで気を回している余裕は無かった。



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