蜜月―烏龍の憂鬱 (5)

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(よ、よせ)
 行くんじゃない、と彼の理性は金切声を上げたが、後頭部がじんと痺れ、体は呆けたように言うことをきかない。彼には武道の心得などまるで無かったので、それが生物としての(精神的・肉体的)力量差がもたらす現象であるなどとは思いもつかなかった。この男は超能力まで使えるのか、と彼は更なる恐怖に駆られる。
「それは新しい趣向のつもりか?」
 パーテイションの向こうにベジータの全身が現れたとき、その顔に薄く冷ややかな微笑が浮かんだ。
(趣向?)
 男まで五歩の距離に近づき、彼の体はようやく止まる。こんなに接近したのは初めてなのではなかろうか。しかも正面からである。意識は既に朦朧とし始めていた。もうそんなことどうでもいい、どうせ殺されるなら楽に死にたいんだ、と半分気絶している頭の中をそんな考えまでが過ぎってゆく。それでも、離脱しようとする理性をどうにか呼び戻し、間近で当てられるとそれだけで心停止しそうな男の視線を辿って、彼は自分の身体を見下ろした。
「ぎゃっ」
 と叫ばないでいられたのは、それだけの力が残っていなかったからである。
 ストレッチサテンの黒ボディに黒いフィッシュネットストッキング(バックシームと編目の細かさは彼一流の拘りだ)、アンクルストラップのブラックハイヒール。御丁寧に、喉元にはホワイトカラーと赤い蝶ネクタイ、手首にはカフスまで付いている。おそるおそる尻に手を伸ばすと、ふわふわと丸いテールが指に触れた。
(・・バニーかよ)
 変化には、優れた想像力を要する。
 ディティールまで鮮明に思い浮かべるほど、完成された変身が可能になるのだ。だからこそ彼は、女性およびその下着類への変化を最も得意としているのである。この度は服装までイメージする間が無かったので、彼のベストコスチュームになってしまったのであろう。ハダカでなかっただけ幸いだったと言うべきかもしれない。
「・・そうよ」
 だがこうなってしまって、却って腹が据わってきた。
「やっぱりさ、フレッシュな刺激って大事だと思うわけ。なかなか似合ってるでしょ」
 そうさ、観客はジャガイモだ。
 ブルマのやつは居候呼ばわりするけど、俺だってちゃんと仕事してんだ(時々だけど)。超大食らいの破壊大王とおんなじにされてたまるかよ。ミラノじゃ、大舞台でモデルの替え玉だってやったんだぜ。そうさ、俺は一流なんだ(替え玉専用だけど)。
 変化の醍醐味。その大きなものとして、優越感がある。
 他人を完璧に騙しおおせたとき、それは大きな快感を変化者にもたらすのだ。日頃すれ違うのもオソロシイ、と感じているこの男を「騙す」ことが出来たら。一度でいい、「負かす」ことが出来たなら。その強烈な快楽への誘惑が、彼の感じている恐怖を紛らせるものになり得たとしても、さほど不思議な話ではなかった。気絶しないように、発狂しないようにという自己防衛機能が稼動した結果でもあっただろう。
「そりゃ結構だ」
 努力する人間は嫌いじゃない。ただし無駄じゃない努力に限って、だがな。男は目を細めて兎耳の先からハイヒールの爪先までじろじろと眺め下ろし、身体の線をなぞりながら乳房の辺りまで視線を戻して、くっと唇を歪める。
(カー!スケベそうな顔しやがって)
 ホレホレ、いいだろうが。オッパイには自信あんだ、触られたってバレやしないぜ!
 と調子に乗ってそこまで考え、彼は再び真っ青になった。
(触られ・・)
 たら、その後何が起こるか。
 いやしくも烏龍たる彼が最初からその事に思い至らなかったのは、豚並みの頭脳しか持たない為前後に考えが及ばなかったから、という訳ではない。所詮、まともな思考が可能な状態ではなかったというだけだ。立てた片膝から肘を下ろし、ゆっくりと立ち上がる男のさまがスローモーションのように彼の目に映った。それをどこか遠い光景のようだと感じるのは、もう既に幾分正気を失い始めているからではないのか。
「何をそんなに震えてるんだ?」
 溜息のようにそう言い、男は実に楽しそうな表情を浮かべて彼の顔を覗き込む。
「ええ?」
「寒い、のよ」
 事実だった。恐怖で全身凍りついているのである。歯の根が合わず、口の中がガチガチやかましい。すぐ間近に、男の黒眼がある。自分の顔から表情が消滅してゆくのがわかる。
「寒い・・」
「なるほど」
 心配するな、すぐに熱くてたまらなくなるさ。低い囁きに、自分の心臓の、やけに長いスパンの拍動が重なった。肋骨から鎖骨を叩くように、どくん、と一拍響く。唇、綺麗なんだな。虚ろになりゆく頭蓋の内で、男の造詣についてそんな事を感じた。
(もういい。よくやったよ、お前は)
 もう立ち上がらなくていい。早く、早く楽になれ。
 意識を手放すよう、彼は己に勧告する。どうせ逝くなら、安らかに。だが手遅れだったらしい、目を開けたまま既に死んでいるかのように彼の意識は硬直し、微動だにしない。
 細い手首に、男の指先が伸びる。彼が見事に再現してみせた滑らかな感触を楽しむように、ミルクのような白い肩までそれを登らせ、男はあくまでエレガンスを失わない仕草で彼の体の向きを変えた。
「さあ、どう料理して欲しいんだ?」
 ベッドの向こう、クロゼットの扉の鏡に『彼女』が映った。背後に半分重なるように立ち、男は薄く笑っている。肩の位置はほぼ同じだ。呪わしいほど完璧な、彼の『仕事』ぶりであった。
 男の黒瞳は、薄暗い室内でその奥底に異様に強い光を潜ませ、それが鋭い輪郭に濃厚な陰を刷いている。鏡の中、伏目になった横顔の凄味に、烏龍は腹の底まで冷たくなった。



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