「今日はまた随分と感度がいいな」
瘧(おこり)のように震えている二の腕を右手指の背で撫で、その肌に走る粟立ちを見下ろしながら男が低く笑った。左は既に、『彼女』の脇から腹の辺りに滑り込んでいる。
「それに静かだ」
悪くない。いつも余計な事をべらべら喋りすぎだからな。男の指は肋骨に沿ってするすると登り、乳房に達した。次にはそこを覆う布を引き剥くのだろう、と彼は思ったが、男はまずサテンの手触りを楽しむように、あるいは形を確認するようにやんわりと周囲を撫で、それからそのたっぷりとした柔肉を掌に収めて、頂を指先で嬲った。
「あゥァ?」
緊張で既に硬く立ち上がっていた部分に、布を挟んで男の爪先が触れた途端、烏龍の咽喉から妙な声が漏れ出る。
(う、うそ)
相手がたとえば物凄い美男であろうと、男に身体を触られるなど考えただけでおぞましい。自分は、そういう“まっとうな”感覚の持ち主である、と今の今まで信じてきたのだが―
「ふェォぁ」
そんな馬鹿な。彼は全身を震わせながら(恐怖に、であるはずだ)、我慢出来ずに身を捩る。と言っても、二の腕を愛撫していた男の右手がもう彼の胴をしっかり抱き込んでいて、碌に動けない。
タンマ!待て、まってくれ!俺は“別世界”なんて覗きたかねえんだ、どうせ殺すんなら 『ギャル大好きで助平で変態の烏龍』 のまま逝かせてくれ!頼む!
「ひゃふっ」
ほとんど拝まんばかりの心の叫びだったが、そうは言ってもやはり本当は死ぬ覚悟など出来ていないらしい。男が、左はそのままに右手をじわじわ降下させるのを感じて、彼の(心の)声は裏返った。
ちょちょちょちょちょ、ちょ、駄目だ、そっちは駄目だ!ロクに再現できてねえんだってばよ!(資料という資料が黒く塗り潰されていたせいだ)マジばれちまう!やめてくれ!ホントお願いします・・・ってああー、ああ、あ、あ、あ、やめて、やめてやめてやめてヤメテエエエ!!
「くっくっく・・・」
鏡に映った『彼女』が、陸に上がった魚のように体をヒクつかせている。何とか逃れようと抵抗しているつもりなのだが、物凄い力でがっしり拘束されていて、その程度にしか身動き出来ないせいだ。その『彼女』の服の中に横合いから侵入させていた指を引き抜くと、男はもうおかしくてたまらないといった様子で咽喉を鳴らした。
「肝心なのが足りんぞ」
貴様、一体女の何が好きなんだ?男は『彼女』を突き離してベッドにどさりと腰を下ろし、腹を抱えてマットに身体を投げ出す。
「傑作だ」
解放された烏龍は、そのままへなりと床の上に崩折れた。チャンスだ、と脱出を試みたが、腰が抜けているらしく、全身小刻みに痙攣させて笑っている男の足元からなかなか離れる事が出来ない。
(バ、バレ、バレてた)
くそ、いつからだ?彼はもう必死で、ふにゃふにゃと力の入らない四肢をくねらせ、床の上を這い回る。
「おい、豚」
寝台の脚を掴み、やっとの思いで上体を起こした烏龍の頭上に、鋭く声が降った。
「ひ、は、はいいっ!」
ひょっとすると、この隙に逃げおおせるかもしれない。その微かな希望は、突如として失せ果てた笑いの後の静寂の中で、はかなく凍結する。
「どうだ」
「・・な、なな、なん、でしょう?」
男の声は低く静かで、そしてこの時初めて気付いたのだが、なかなかの美声なのだった。絶望とセットだ、と彼は思う。
この男は、すべてがそんなふうに出来ている。声、眼光、皮膚の艶、肉厚の輪郭。生物としての強烈な存在感を醸す、すべてのもの。その所作の優雅までが、獲物の生への希望を搾り尽くすに違いない。
「王族の体だ、滅多に味わえるもんじゃない」
そう言うと、男は肘を立て、掌に頭を乗せてベッドの上に長々とねそべり、彼をじっと見下ろした。
「そうだろ?」
「・・はあ」
「男も豚も経験無いが・・ものは試しだ、喰らう前に抱いてやろうか」
豚臭いのはいただけんがな、生きたまま焼くと旨いらしいぞ。知ってたか?
愉快そうに呟く声が、耳の詰まったような不快感を伴って反響し、不意に遠退く。
(死ぬんだな、オレ)
彼の背後で、ブラインドがはたはたと揺れる。雨が近いのだろう、若葉の凝った香りを孕み、湿気を含んで風が肌を撫でて行く。
そうか、あの時だ。
彼を最初にもてあそんだのは、風であったという訳だ。羽同士がぶつかる音の、なんと軽やかで滑稽で、残酷な響き。
あのとき、風が吹かなければ。
顔を上げていなければ。余計な事を、思い出しさえしなければ。
(もっと長生きできたんだ・・ろう・・・な・・)
視界が徐々に白濁し、ぐらりと揺れる。意識はようやく、彼を手放す気になったらしい。
倒れ伏す瞬間、目尻から涙が舞い散るのを感じた。彼が本物のブルマであったなら、ひょっとすると男の腕に抱きとめられたのかもしれないが―
(・・いでー・・・)
床でしたたかに頭を打ち、目から火花が散る。金平糖みたいな形のそれが頭の周りでぱちぱち弾け、景色がふっと暗転した。