蜜月―烏龍の憂鬱 (4)

 1  2  3  5  6  7  8  Gallery  Novels Menu  Back  Next

「戻ったのか?」
 ぼむ、という変化の音をどう聞いたか、息を混ぜた低音が響いた。少し、掠れている。
(いいぞ、寝てやがったんだ)
 寝起きの身体を伸ばしているらしい。透かし彫りのむこうから、マットレスの微かな軋みと、けだるそうな呻きが漏れる。
「え、え、ええ、そうなのよ。た、たたたただいま」
 と、どもりどもりしながらも必死でブルマを真似て返すが、
「なんだ、その声は」
 似せるには限界がある。おまけに緊張で裏返って、ひどく調子外れになってしまった。半身を起こした男の声に不審そうな響きがこもり、彼は自分の毛穴という毛穴から汗が噴き出すのを感じる。
「かかか、かか、風邪よ!風邪ひいちゃったの」
 だが焦りまくって叫ぶ烏龍に、
「・・ふふん」
 と男は含みのある笑いを返してくる。
(なんだよ、その笑い)
 ひょっとして、既に露見しているのだろうか。ああ、やっぱ駄目かも。僅かに差した希望の光が再び雲間に消え行くのを見つつ、だがそれでも流石というべきか、
「昨日のあれだな」
 という低く小さな呟きを、彼は聞き逃さなかった。
(こいつ・・)
 昨日の何、なのかは分からない。だが想像はつく。その声が帯びた好色そうな響きは彼を驚愕させ、同時に少し安堵させた。
(おっそろしい顔して・・結構好きなんじゃねえか)
 こいつも、そういうとこ案外フツーの男なんだな。危ない場面を一つやり過ごしたと胸を撫で下ろしながら、彼は間仕切りの向こうにいる宇宙人に微かな親近感をすら覚える。
「で?何をしてる」
「はエ?」
 自分の立ち位置、男が身を起こしている寝台、出入口。しばしかれらに訪れた奇妙な沈黙のあいだ、その三箇所に忙しく視線を走らせつつ、さてどうやってこの状況を打破したものかと脳味噌をフル回転させているところに突然訊ねられたものだから、彼は素っ頓狂な声を抑える事もできないままおかしな返事をする。
「何って、な、なに、なにが?」
「なんでそんなところに突っ立ってるんだ?」
 来いよ。男が、静かに彼をいざなう。面白そうにさざなぐ声のどこかに、この男特有の、不思議に優雅な血生臭さが滲む。
「来いって・・・」
「ここへ来い」
 行ったら―
 行ったら、どうなる。
 恐怖で痺れ、少し感覚がおかしくなっているらしい。彼の頭の隅を『試してみたい』という思いが走り抜けた。透かし彫りのむこうで、男の姿がその輪郭を微かに揺らす。厚みのある部分に隠されて、その表情は読めない。
(やべ、しっかりしろ)
「だめよ、風邪ひいてるって言ったでしょ」
 低い声に吸い寄せられそうになった自分を励まし、彼は気力を振り起こした。大丈夫だ、絶対見破られない。うまく言ってこの場を抜け出せさえすればバレやしないさ。彼は変化に関しては自信があった。その自信が、極度の緊張の中でもどうにか拒絶を可能にしたのだが―
「だったら何だ?来いと言ってるんだ」
「あたし、ママに用が・・」
「あいつは今日は夜中まで戻らん。忘れたか?でなきゃこの家がこんなに平和であるはずがないだろ」
「じ、じゃなかった、パパよ」
「一週間も前から出張中だぞ。熱も出てるんじゃないのか」
「う・・・」
 なんだ、こいつ・・・
 高飛車で、小馬鹿にした物言いである。にもかかわらず、それは酷薄で、それでいて歌うように優しい囁きなのだった。男の危険な指先に喉元を撫で上げられた気がして、烏龍は硬直する。その爪先から滴って糊化した彼自身の血に、絡め取られ、声を奪われ、自由を奪われてゆく―そんな気がした。
「来い」
 低く響いた一声に、烏龍の膝がかくりと折れる。彼はまるで機械仕掛けの人形のように、ぎくしゃくしながら一歩、二歩と踏み出した。



 1  2  3  5  6  7  8  Gallery  Novels Menu  Back  Next