声 (8)

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 王立アカデミーへの二時間ほどの移動中、彼女はふとあることに気がついた。
(あいつ、何読んでたのかしら)
 枕元にあった本の表紙を思い出そうとするが、だめだった。あの男が、あんなふうに居眠りするなぞ珍しい。昨夜それほど夢中になって読書していたということなのか。
(運動生理学の本とか?)
 勉強家ではある。自分にとって必要ないしは興味深い分野においてのみ発揮される性質だが。
(でもあいつの睡眠を削るほど目新しい分野でもないし)
 長く一緒に暮らすうちに分かってきたことだが、彼は以前の生業において必要な範囲の知識については、ほとんど完成しているといっていいレベルのものを持っていた。運動(戦闘)生理学はもちろん、惑星間共通言語、医学、生態学、地質学、宇宙物理学など。あくまで仕事に必要な範囲で相当程度の知識を有しているということであり、学問ではなかった。しかし、一つの惑星ではなく銀河の中心といって良い場所で、しかもかなり広域における数多くの知性が磨き抜いたそれらの知識は、全網羅的なものではないにせよ、彼女に舌を巻かせるには充分なものだった。
 ある考えが、頭をよぎる。
(ひょっとして、本読んでたというより、あたしを待ってたとか)
 まっさかねえ!だが今朝の様子を思い起こすと、そのまさかなのかもしれないと思えてくる。
 娘を寝かしつけたと告げたあと、腕を組み、壁に凭れ掛かっていた男の様子を思い出す。済んだのか、と声を掛けたあと、しばらくそのままそうしていた。その後部屋を出て行ったが、あれは返事を待っていたのでは、或いは彼女の様子を伺っていたのではあるまいか。そう長くは掛からなさそうだと判断し、部屋に戻って、睡魔に負けるまで本を片手に彼女を待っていたのではないのか―おそらく自覚は無かったろうが。彼女とのコミュニケーションを欲する気持ちが、無意識にそんな行動を取らせたとは言えないだろうか。だとすれば。
(・・あんたって、ホントあたしのこと好きなのねえ)
 ついに頭がおかしくなったか。男が聞けばそう言って眉を顰めるだろう。すこし心配そうな色を滲ませて呟くその声までが聞こえる気がして、彼女は小さく吹き出した。
「社長?」
 隣に座っていた若い秘書が不思議そうに覗き込む。
「なんでもないわ、ちょっと思い出しただけよ」
「そうですか・・まだまだ時間が掛かりますから、少しお休みになられてはいかがでしょう」
 彼は、彼女の疲労を心配したのか、仮眠を勧めてきた。まあ、このコあたしが寝不足でちょっとキちゃってると思ったのかしら。彼女は苦笑いして答える。
「大丈夫よ、眠くはないの。ありがとう」
 そうですか、彼は答えて再び資料に目を落とした。仕事熱心だし、やさしい子だわ。彼女は秘書の、少し的外れだが細やかな気配りに満足する。もっと経験を積ませて育て上げたら、きっと有能な秘書になるだろう。そうすれば、後を継ぐことになるだろうトランクスの右腕ともなって行くかもしれない。何と言っても、彼女の息子を支えるのに十分なだけの若さを持っている。
 あたしもそろそろ仕事モードに入らなきゃね。半端に終わらせていたメイクを完成させるため、彼女はコンパクトを取り出した。鏡に映る顔は少し青白かったが、瞳は青く輝いていた。うん、さすがね。寝てない割には結構見られるじゃないの。ルージュを乗せたらほぼ完璧ね。彼女はスティック状のそれを取り出し、カプセルコーポレーションの最高責任者の顔を作り上げる。
 つらくて不安だと、感じた時期もあったけれど。彼女はこれまでの紆余曲折を思う。そして、彼女が彼女であることの奇跡に、思いを馳せる。
 もしも孫悟空が地球に送られていなかったなら。彼女がドラゴンボール探しの旅に出掛けなかったなら。仲間たちに出会わなかったなら。気の遠くなるような空間を越えて、ベジータと、結びつかなかったなら。
(まったく、柄でもないんだけどさ)
 どの一つが欠けていても、今の彼女ではありえなかった。それは偶然の積み重ねにより生まれたものだとも言えようが、ならばその偶然の積み重なりこそが、奇跡そのものと言えはしまいか。
「社長、見てください!素晴らしいですよ!」
 若い秘書が、ちょうど山岳地帯のハイウェイを走っていた車の外の景色を少し興奮気味に眺めている。その視線の遠く先には、いろづいた山々が織り成す綾錦が折り重なって広がっていた。
「ほんと。すごいわね」
 数々の偶然が折り重なってもたらした、この実りの季節の幸せが、じんと彼女の胸に沁みる。
 今日は出来るだけ早く帰ろう。久しぶりにみんなで食事をしよう。リビングでお茶を飲んで、ママ一昨日パイを焼いてたわ、まだ残ってるかしら、あれ食べながらおしゃべりしよう。パパにママ、トランクス、ブラ、ベジータ。ああ、そういやウーロンもいたわね。何だかんだ言って、結構幸せな家庭って感じじゃないの。
 かつて男が抱えた孤独を想う。彼の心中は様々に複雑だろうが、彼女は信じている。
 あんたはきっと、自分の選択を悔いてはいないわ。こんな生活も、悪くはないでしょ。
 車が山岳地帯を抜けると、わあ、と秘書が感極まったような溜息を漏らした。農場地帯に入ったようだ。波打つ金の麦の穂の海が、地平線まで広がっていた。

2005・4・26



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