声 (2)

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 孫悟空が死んだ。
 その知らせは自分を始めとする彼の多くの友人たちに、大きな衝撃を与えた。共に戦い、それを見届けた戦士たちにとってさえ簡単には受け入れることの難しい、あっという間の最期だったという。あれから世界はまた馬鹿馬鹿しいほどの平穏を取り戻していた。何もかも、元通りになった。孫悟空の、永遠の不在を除いて。

 その半月ほど後、ベジータが姿を消した。
 それは彼女以外の人々にとって本当に唐突に感じられた。戦後、彼は自分からカプセル・コーポに戻ってきて、その後も当り前にそこで起居を繰り返していた。だがある朝家人が目を覚ますと、忽然と消えていたのだ。
 いつもの野外トレーニングではなかった。彼は、戦いが終わってから全くトレーニングを止めてしまっているようであったし、もしそうであれば持ち出すはずのカプセル類がそのままになっていた。彼のそんな一見気まぐれに見える行動はそう珍しいものではないので、家人は最初たいして気に留めている様子はなかった。だが三ヶ月が過ぎた頃、彼女の父親が朝食の席で、そういえば今回はやけに長いなあと漏らした辺りから、のんびり屋の彼女の両親も、彼の消息について、折々に少し心配気に触れるようになった。
「元気にしておるのかな、また無茶をやってなきゃいいが」
「ベジータちゃん、ちゃんと御飯食べてらっしゃるのかしら」
 彼らは分かっているのかいないのか、呑気なことを言っては彼らの娘に溜息をつかせた。
 おっとりしているようで実は勘の良いあの両親でも、気付かなかったのか。男は、戦いを終えて戻ってきた時から、以前とは微妙に様子が違っていた。
 人を呑むような覇気が失せた。そして黒い瞳からは、あの燃えるような光が消え、ふとしたとき、一瞬だがその不安定な内面が映し出されることさえあった。
 決して壊れることはない。
 そう言い切ることは出来ない、と彼女には思えた。彼の中で死んだ悟空がどれほどの位置を占めていたかを彼女は知っている。強靭な肉体と、それにふさわしい精神を持つ男ではあった。だが、これまでの人生において支柱となって来た、絶対の誇り。彼はそれを、もう永久に取り戻せない。
 誇りをとりあげたら、彼に何が残るのか。
 彼女はしかし、気楽に構えることにした。彼が彼女の生活のすべてというわけではなく、それなりに忙しかったのと、生来の楽天的な性質から、あまり考え込まずに済んだということもある。
 急いでも仕方がない。この人の道は、この人にしか見出すことは出来ないのだから。
 彼女はただ、これまで通り彼を受け入れ、側らに寄り添った。胸の内の重苦しさを自覚しない訳にはいかなかったが、出来るだけ淡々と日々を過ごした。彼もまた、起床し、昼間カプセル・コーポからいなくなり、夜になると戻ってきて、時々は彼女を抱いて、眠る。そんな日々を送った。消息を絶つその前夜まで。

 彼はまだこの星のどこかに留まっているのか。ブルマが考えるのはそれだった。
 悟空を失った今、彼がこの地球に留まる理由はどこにも無くなっている。だが、彼が宇宙へ戻るにはそれなりの性能の宇宙船が必要であり、その技術を地球外生命体達から吸収することが出来たのはカプセル・コーポだけだったのだから、彼女の目の届く範囲から宇宙船が一機も無くなっていない以上、彼はこの地上にいるはずだ。
 そのはずだ。
 と自分に言い聞かせながら、彼女はそのことを考えるとき、自身の思考が内側に沈み込んでいってしまうのを感じて暗澹たる想いを抱く。自分はこんなにも彼に囚われてしまっているのか、と。

 男が居場所を眩ませて七ヶ月が過ぎようとしていた。
 相変わらず彼女は忙しく、父は研究三昧で、母はお菓子やお花やインテリア、そして可愛い孫息子のことで頭を一杯にして、それぞれの日々を過ごしている。

 それは空高くに下弦の月が輝く、空気の澄んだ夜だった。
(もしも、このままベジータが戻らなかったら)
 彼女は子供部屋の窓外に広がる夜の都を見下ろしながら、考えることを避けてきた可能性と、ついに向き合った。
 彼女たちとほんのひととき交わり、そしてここから消えていった、そんな男がいた。
 それだけで、終わってしまうのだ。
(それだけ、なんだ)
 たまらなくなり、彼女は自分の喉の奥の方にある彼の背中を抱こうとした。しかし、握り締めた拳を乳房に押し付けるだけで、想いは彼の身体を素通りする。唇から、男の名前が漏れる。
「戻って来てよ・・」
 我知らず零れた、本音だった。その音が自身の鼓膜を震わせたとき、彼女は、ああそうだったのだ、と合点した。ずっと言葉にならなかった、余計な思惑を取り去った自分自身の本音。
 なんて簡単なのだろう。なんでもいいからベジータに会いたい。ただ、それだけだ。
 彼女は、姿を消す前夜の男を思い出す。重なった身体の、その重み。頬に触れる首筋の逞しさ。耳朶(じだ)に落ちる吐息の熱さ。もしもあのとき、首根っこに噛り付いて行かないでくれと懇願すれば、彼は思い留まっただろうか。今も、ここにいたのだろうか。ここに―自分のかたわらに。
 どうするかは、彼自身が決めれば良い。行きたいところへ行き、やりたいことをやり、生きたいように生きて。あたしも、やりたいようにやるだけ。
 ずっと、そう思ってきた。それで平気だ、と思えた。彼女が人生を楽しむ景色の中に彼が居なくても、彼がそれを選ばないのなら、それは仕方ないのだと。
 そうだ、仕方無いのだ。共にいたいと願っても、彼がそれを望まないのなら。
 彼女は床にくずおれ、声を出さずに笑い転げた。笑いすぎて涙が出た。あとからあとから、溢れ出てきて止まらなかった。
 やりたいように?笑っちゃうわ。
 それでも、寄り添うことの他に彼女に何が出来たろう。本気で泣きついたら、彼はここを離れることは無かったのかもしれない。だがそのとき彼女の隣にいるのは、彼女の望んだベジータではないのだ。彼女が愛(いと)しんだ、自分に正直な彼では。
 ありのままの彼を、大切にしてきた。彼女の家族が、彼に対してそうしてきたように。自分の価値観をそれがために曲げる事はなかったので、しょっちゅう衝突はあったが、それは彼女の―そしておそらくは彼の、でもある―流儀のようなものだった。間合いを詰める為には、“戦って”みるしかない。
 だがそれだけではなかった、という事なのだろう。共に生きたいと、彼女はそう望んでしまった。いや、彼女にとって、彼は『必要』にさえなってしまっていたのだ。
 一体いつから。この地球に留まるかどうかも定かでなかった男を。それどころか、いつまた敵に回るかもしれない、危険な男だったものを。
危険?
―いや、どこかで確信していたはずだ。彼はもう自分を殺すことはないだろうと。たとえ、彼が孫悟空を殺しても。そして、たとえそのことで、彼女が彼から離れていったとしても。
 どうすりゃ良かったっていうの。あいつが納得できないまま生きてる姿なんて、見たくないのよ。
 けれど、気付いてしまった。自分は、彼のいない人生など本気では想定していなかったのだという事に。彼女はそして、己自身に引き裂かれた。
 笑いは、嗚咽に変わっていた。寒々しい天井をみつめたまま自分の身体を抱き、その指先の冷たさにおののいた。



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