声 (5)

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「済んだのか」
 低く声が響き、彼女は休憩室の入口を振返る。壁に寄り掛かって腕を組んだ男が立っていた。
「寝かしつけたぞ。部屋へ運んでおいた」
「おつかれさま」
 コーヒー飲む?自分の鼻先にマグカップを掲げてみせて、彼女は尋ねる。いや。男は首を振る。そう。返しながら彼女は一口飲み、少し継ぎ足す。
 一人で自分を組み直す時間が必要だったのだろう。あの七ヶ月は彼にとってそういうものだったのだと彼女は思っている。どこにいて何をしていたのかは、今も知らない。訊ねたことも無い。
 あんたはあたしを下品な野次馬だって言うけど。分かってないわよねえ。だったらこんなに静かにしてるわけ無いじゃないの。
 彼女は立ち昇る湯気の向こうに男の顔を眺め遣り、カップで隠れた口元を緩める。悪戯っぽく細められた彼女の目を見て、彼は片方の眉を上げて少し首をかしげる。彼女は綺麗な笑みを浮かべたまま男に近づき、カップを持っていない方の手を首に回して耳元に唇を寄せ、囁く。
「あんたって、いい男ね」
 ・・・お前は本当に訳が分からん。微笑を浮かべて覗き込む彼女の青い瞳を見返して、男があきれたようにぼそりとつぶやく。もう寝る。言うと組んでいた腕を解き、踵を返そうとする。その一瞬の隙に、絡み付けていた腕をそのままほとんど後ろを向いた肩に滑らせながら、彼女は男の耳朶(みみたぶ)をやわらかく噛んだ。
「!」
「ふふ、おやすみ」
 驚いて一瞬動きを止めた男に言葉を掛け、彼女は背を向けた。キッチンスペースの方に歩きかけたとき、今の動きでコーヒーを少し床に零したことに気が付き、彼女は小さく声を上げる。背後で、男がふんと鼻を鳴らして立ち去って行く気配がする。彼女はカップを置き、しゃがみこんでペーパーで床を拭う。そして立ち上がったとき。
「!!きゃあ!」
 うなじに何か温かい、柔らかいものが当たり、思わず悲鳴を上げる。急いで手をやり、振り返ると、くっくと咽喉の奥で笑いながら遠ざかろうとしている男の背中があった。もう!声を上げ、その背をぴしゃりと叩いて抗議するが、彼は一向意に介さず、笑いながら部屋を立ち去って行く。いつの間に戻ってきてたのよ。足音まで消して。心臓が止まりそうだったじゃないの。触れた唇の感触が心拍数の上昇に拍車を掛ける。
「馬鹿なんだから・・」
 悪態を吐(つ)きながらクールダウンしているところへ、息子が入ってきた。
「どうしたの?なんかすごい声がしたけど」
「ああ、おかえり」
 何でもないわ。ちょっとベジータに悪戯されたのよ。ホントにもう、ビックリしたんだから。彼女の息子はその文句を聞いて、はあ、と溜息をつく。
「またじゃれてたの?ほんと仲いいよね」
 どうせママが最初にちょっかい出したんでしょ、しようがないよ。正論を吐かれて彼女には返す言葉が無い。
「大きくなったもんよね、あんたも」
 昔はいつだってあたしの味方だったのにさ。言ってから彼女は、昔といっても赤ん坊の頃で、味方といってもほんの一時期自分にシンクロしていたというだけのことだった、と思い直す。この賢く要領の良い息子は、大きなものはそうしょっちゅうではなかったが、両親が喧嘩を始めると、さっさと退散して高みの見物を決め込んでいた。どうせすぐなかなおりするじゃん。マジメにどっちかにみかたするなんてバカバカしいよ。この台詞が彼の口をついて出たのは、なんと五歳になるかならないかという頃だった。
「ああ、オレもう寝るよ」
 疲れちゃった。欠伸を漏らしながらトランクスが言う。その口元を手の甲で塞ぎながら。
 やだ、同じことしてる。ホント、似てるわねえ。
 目や髪の色は彼女と同じだったが、造りは父親に瓜二つだった。身体の各パーツも酷似していて、その顔や身体で仕草や癖までそっくりなのだ。彼が、幼い頃から父の美しい所作(食事時以外)を意識的に真似た成果でもあったろう。しかし、眠っているときの仕草まで全く同じだったのはどういう訳なのか。
 彼が子供のころ、庭の木の下で並んで昼寝しているところなどは傑作だった。少し開いた小さな口元や、片腕を枕にして眠る体勢、立てた片膝、寝返りのタイミングまで、大小でまるで同じ。
 あのころにはもう、シンクロしてるのはあんたたちのほうだったわね。彼女は笑いを噛み殺して息子を見る。すると彼は、彼女の顔を見て片方の眉を上げ、小首をかしげてみせたではないか。もうダメ!彼女は我慢できずに吹き出して大笑いを始めた。
「マ、ママ?どうしたのさ」
 トランクスがぎょっとする。この母はいつも突然笑い出して彼をびっくりさせるのだ。聞いてみると何でもないことで毎度脱力させられるのだが、その始まり方は常に唐突過ぎた。ホント、パパは退屈しないだろうなあ。彼は大笑いする母の側で、ぼそりとひとりごちた。



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