声 (7)

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 彼女は寝室に入ると、ベッドサイドのテーブル向こうの壁際にコンピュータとディスクを置き、作業着を脱いでシャツと下着だけになると、先に眠っているベジータを起さぬよう、静かにベッドに滑り込む。
 男は背中を向け、静かな寝息を立てていた。見ていると、また色々考えてしまいそうなので、彼女は目をそらし、天井に顔を向ける。眠らなきゃ。明日隈を作って行く訳にはいかないわ。だが身体は確かに疲れているはずなのだが、さっきまで仕事でフル回転していたせいか、頭が冴えて一向に眠れない。一時間以上目を閉じていたが、ついに諦めて彼女はベッドから滑り降りた。もう空は東がはっきりと白んできている。
 いいわ。メイクで何とかするしかないようね。
 彼女はガウンを羽織り、煙草とライターを手にテラスの窓をそっと開ける。ふわりと流れ込んできた心地よい風に、彼女は目を細めた。室内は常に快適な気温と湿度を保つように設定されているが、彼女は自然の風が一番好きだ。
 そのとき、背後で衣擦れの音がした。振り返ると、男が寝返りを打ち、目を開くところだった。
「ゴメン、起こしちゃった?」
 自分が誘い入れた風に目を覚ましてしまったのだろう。彼の平和な眠りを妨げた事を詫びた。
「・・何してる」
 男は少し掠れた、眠そうな声で言う。
「外で一服しようと思って」
 邪魔したわ。言って彼女はテラスに出て窓を閉めた。チェアに腰掛け、煙草に火を点ける。彼女は一日のうちでこの時間帯が一番好きだった。新しい空気、蒼く透き通った、しかし時間と共に徐々に温かみを増してくる空の色。まっさらな今日の、始まり。そして何より素晴らしいのは、陽の最初の一矢が世界を貫く、あの瞬間だ。高台にあるこの建物の、このバルコニーからは、海がよく見える。ここでは海から一日が生まれ、海がその日を飲み込んで行くのだ。とはいうものの、そのどちらも、彼女が目撃することなど滅多にないのだが。
 背後で窓の開く音がした。見ると、男がバルコニーに出てくるところだった。手には彼女の最近のお気に入りの瀬戸物の灰皿を持っている。忘れ物だ。ゆっくりと近づいて来てそう言うと、それをテーブルの上に置く。そのまま、彼女の隣のチェアに腰を下ろした。
 眠ってないのか。既に空との境目がはっきりしている海に目を遣りながら、彼は彼女に尋ねる。
「うん、目が冴えちゃってね」
 彼女は答えて、灰皿に灰を落とす。唇から伸びた煙が、風に靡く。
「あんた、こんなに早く起きるの?まだ寝てればいいのに」
 付き合わせちゃ悪いわ。彼女は気の毒そうに言う。
「たまたま目が覚めただけだ」
 彼は不機嫌そうにそう返す。彼女と一緒に過ごしたいからバルコニーに出てきたのだ、とは当然言わない。だが若い時代が長く続く彼らの種族の特性なのか、成長期の息子ほどではないが、彼は朝が得意なほうでは無かった。というと言い過ぎかもしれないが、安眠できる状態であれば、夜明け前のこんな時間に起きていることはあまりない。それを彼女が知っているのは、彼女が早起きだからというわけではなく、この時間になってからベッドに入ることがさほど珍しくはない所為だった。
 なのに―
 今、彼は隣に座っている。彼女はここのところ例の仕事と、もう一つ重なった大きな仕事のせいで多忙を極めており、彼と一緒に過ごすことがほとんど無かったのだと気がついた。
(・・寂しかったのかしら)
 彼が聞いたら、また鼻で笑うだろう。しかし彼は自分で気付いてないかも知れないが、ほとんど間違いなく、今彼女と一緒にいたいと思っているのだ。考えてみると、同じように育児中とは言っても、トランクスのときはまだ自分の好きな研究や開発が仕事のほとんどで、こんなに忙殺されることは無かった。現在でも、普段はここまで忙しい訳ではないのだ。彼にとって、彼女がこれほど傍にいないことなど、自分が望んで離れた以外では初めての経験だろう。
(・・絶対そうね)
 ふふ。あんたなんか、居なくなっちゃったりするのもしょっちゅうだったじゃない。ちょっとはあたしの気持ちが分かったかしらね。
 彼女は、煙草の煙を吐き出す為を装ってあさっての方を向いた。朝陽はすぐそこまで迫っているのだ。こうでもしなければまた、何を笑っていやがるんだ、と機嫌を損ねてしまうしれない。
 笑いを収めると、彼女は立ち上がり、隣へ移動する。
「・・何してやがる」
 男はさっさと自分の膝の上に腰掛ける彼女に、非難がましい目を向ける。
「寒いのよ。いいじゃない、重かないでしょ」
 ホントはうれしいくせに。笑いながら男の腕の中に納まる。彼は憮然とした表情でためいきをつきながら、それでも納まりが良いように少し体勢を整える。男の首に両腕を絡ませ、彼女は彼の頭を抱き寄せる。あんたって、やっぱりいい男だわ。彼女は低く呟いて、男の額にキスをした。
「・・お前、昨日もそんなこと言ってやがったな」
 一体何だ。男は少し眉をひそめて彼女の顔を覗き込む。
「それに、すごく可愛いわ」
「あぁ?」
 貴様寝ぼけてるのか。しかし男は、抱き寄せられ布越しに彼女の乳房に顔を埋もれさせて、少しくぐもった声で憎まれ口を叩くものの、髪を撫でられてもうなじを擽(くすぐ)られても鼻をつままれても、全く抵抗しない。薄く目を閉じて、彼女に頭を預けている。
「ねえ、王立アカデミーの仕事、今日で一応終了なの。データの追加なんかの仕事は入るだろうけど、後は向こうがあれをどう使いこなすのかって段階よ」
「・・そうか」
「ネイチャーカンパニーとの提携もうまく行ったのよ。あとは担当者同士で細かい話を詰めるだけになったわ」
「そうか」
「あたし、来週末には体が空くの」
「・・だから何だ」
「出掛けない?あたし東の都へ行きたいわ。ゲイシャを見てみたいの」
「・・こないだ行ったところだろう」
「こないだって、あんたあれ三年も前じゃない。それにあの時はシャンハイシティーに半分仕事で行っただけだったじゃないの。今度はキョウトとか、あっちのほうへ行くのよ」
「・・よくわからんが」
「行こ?たぶん一週間がいいとこだと思うけど」
「一週間!?ガキはどうするんだ」
「ブラなら大丈夫よ、ミセス・プロフェンにお願いすればいいし、それにママだっているわ」
 彼女は長女の優秀なベビーシッターに絶大な信頼を置いていた。彼は知らないが、出張先に同行してもらい、五日間丸々預けっぱなしにしたこともあるのだ。乳呑児のうえ気難しい娘が心配だったが、彼らは北の都でゴキゲンな五日間を過ごしたようだ。ひょっとすると、ブルマよりもずっと長い時間を共に過ごすベビーシッターの方を、母親だと思っているのかも知れない。
(じゃああたしは託児所のひとってとこかしら・・まあ、仕方ないけど)
 一抹の寂しさを覚えながらも、彼女の小さな頭には、はや旅の計画が次々に浮かんで来る。
「ああ!なんか元気が出てきたわ。楽しみねえ。ハネムーンみたいだわ」
「・・阿呆め」
「もう一人いっとく?」
「まだ産む気か」
「あら、まだまだ大丈夫よ。ちょっと出すときにしんどいかもだけど」
「本気か」
「本気よ」
「――」
「なんてね。でも出来たら産むわ。それでいいんじゃない?」
「・・・そうだな」
 この男の子供がもっと欲しいと、ずっと思っていた。だが、なかなか二人目が出来なかった。社のトップとしての仕事が波に乗り始めたとき、長女を授かった。周囲は祝いの言葉と共に、普通の立場ではない彼女の仕事への影響を懸念する言葉を口にした。手放しで喜び、どんな協力も惜しまなかったのは、両親と友人達と、彼女の秘書の一人だったミセス・イブ・プロフェンだった。ブルマの出産後、五十歳を期に彼女は退社し、今は長女のベビーシッターとして働いている。
「ああ、もう夜が明けちゃうわ」
「何かまずいのか」
「陽が昇ったらまたあなたと離ればなれよ、あたし寂しいわ」
「・・・・・」
「朝なんてこなきゃいいのに。そうすればあなたとずっとこうしていられるわ、ダーリン」
「・・やめてくれ、虫唾が走る・・・」
「ねえんハニー、あなた寂しくないの?」
「や、やめ」
「あたしのこと、もう愛してないの?」
「やめろと言ってる!」
 ついに彼は、ほとんど裏返った声で叫んで、彼女の両肩を掴んで自分から引き離し、さも痒くてたまらないというように自分の腹や胃のあたりを掻いた。彼女は、彼の膝の上でその様子を見ながら弾けたように笑い転げる。
 彼女の明るい笑い声が響く中、二人をその日の最初の光が射した。彼女はまぶしそうに目を細め、やっぱりいいわ、と呟く。
「・・明けちゃったわね」
 彼女は輝き渡る海をみつめて、ああきれいだわ、とためいきをつく。
 朝陽は、生命そのもの。生あるすべてのものの上に、日々、いのちが降り注ぐんだ。朝が来るから、陽が昇るから、人は生きることが出来るんだよ。彼女は、大好きな伯父の言葉を思い出す。自分が朝陽を好きなのは彼の影響もあるのかも知れない。
「さてと、もうホントに行かなきゃ」
「・・何だか知らんが随分早いんだな」
「うん、一緒に行く研究員達と打ち合わせしとかなきゃいけないから」
 なんかあんたのお陰で疲れが吹っ飛んだ感じよ。ありがとう。言って彼女は、彼の唇に触れるだけのキスを落とした。
「じゃね」
 男の膝から降り、煙草とライターと灰皿を手に、彼女は部屋に入る。シャワーを使おうと衣類を外しているところへ、男が入ってきた。下着姿の彼女から慌てて目を背け、眉を寄せる。
「まったくいつまでも慎みの無い・・」
 彼女は振返らずに返す。
「一緒に入る?」
「馬鹿なことを言うな。朝っぱらから・・早く入れ」
 朝っぱらから、なに?一緒に入るかって聞いただけなのに。ホントに正直な奴ね。彼女は片頬に笑いを浮かべてバスルームに入る。
「まったくいつまでも変わんないわね」
 あたしの裸なんか何千回も見てると思うけど。きっと慣れないのね、そういう状況以外で目撃するのって。その意味では確かにあいつは慎み深い、もっと良く言えば上品ってことになるのかも。
 手早くシャワーを済ませると、彼女はバスローブを羽織り、部屋へ戻る。男の姿は無い。開いた窓越しに、バルコニーのチェアに腰掛けているのが見えた。彼女が服を着込むまでそこに避難しているつもりなのだろう。そこまでやられるとこっちだって気を遣っちゃうわね。彼女は冷蔵庫から飲み物を取り出し、鏡の前に座ると、手早く支度を済ませ、洗面所でドライヤーを使う。服を選び、身に付けると、カプセル・コーポの社長の出来上がりだ。化粧は軽く済ませたので、移動中にもう一度やり直す必要があるが。バルコニーに出て、男に声を掛ける。
「お待たせ・・・ベジータ?」
 項垂れた男の顔を覗きこむと、すっかり眠り込んでいる。やはりまだ寝足りなかったのだ。昨晩娘を寝かしつけた後、すぐに眠った訳ではないのだろう。そういえば枕元に本が置いてあった。
(珍しいわね)
 風邪引いちゃうわ。彼女がそっと肩に手を置くと、男はすぐに目を開いた。
「行くわね。もう一回ベッドで寝たら?ここ結構冷えるわよ」
 お前と一緒にするな。男は呟きながらも立ち上がり、彼女の後に続いて室内に戻って来た。彼女は、昨晩念のため自室に持ち込んでおいた小型コンピュータとバックアップをケースに納め、結局もう一度ベッドに潜り込もうとしている男を顧る。
 愛してるわ、ダーリン。キスを投げて寄越す彼女を、男は軽く睨み、ふんと鼻を鳴らした。



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