声 (3)

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 どの位そうしていたのか。突然、子供の泣き声がけたたましく響き渡った。ベッドの柵を掴んで揺すりたて、今にも破壊しそうになっている。彼女は脱力し切った自分の身体をやっとのことで起こし、ベッドに近づいた。腹はくちいはずだ。身体が不快なのかと確認したが、それも無い。
 彼はやっと一歳になったばかりだが、力が強く、声も大きかった。つい十日ほど前にも、何が気に入らなかったのか酷く機嫌が悪くなり、愚図って泣き出したまでは良かったが、一際大きな声で叫んだ瞬間、小さな爆発のような衝撃が周囲に広がり、テーブルの上のコップが砕け散ってしまった、という事があった。息子を抱き上げようと近づいた彼女が、思わず体を丸めて後ずさったほどの、強い波動だった。
 この子はやはり、普通には育てられないのだ。
 ソファの縁に掴まり立ちして泣いている姿を見下ろし、今後の彼の養育について考え、彼女は思わず溜息を漏らしたのだった。
 ベッドから抱き上げたが、彼の機嫌は直らない。ここのところ随分と不安定だ。母親の心情を反映するのかもしれない。彼女が物思いに沈んでいたり、気分が悪かったりすると、必ずと言って良いほど愚図り始める。
「よしよし、どうしたの?」
 彼女は息子を抱きしめて、その耳元で囁く。泣かないのよ。あんたは、とびきり強い子なんだからね。体を揺らして、彼をあやす。低く、歌いながら。
 しばらくすると、ぐずぐず言いながらも彼は落ち着いてきた。そのうち、時々ぐすんと鼻を鳴らすだけになる。彼女の胸に顔を預けながら、繰り返されるその歌声に聴き入っているようにも見えた。

 トランクス。あんたのパパ、今どこにいて、何してるかしらね。
 ママね、パパを探してみようと思うの。それでもし見つけられたら、こう言って彼を説得するわ。私たちと一緒に幸せになりましょ、って。今度こそちゃんと言うのよ。帰ってきてってお願いするんじゃなくてね。ママはつまり、パパと一緒に居たいし、パパにもそれを悪く無いって感じて欲しいと思ってるんだわ。言葉にしちゃうとシンプルだわね。
 あんたはどう、って彼に確かめないとね。ここにいるのが嫌で出てった訳じゃないんだと思うのよ。あのひと、きっと今自分がどうしたいんだか分からないんだと思うの。望みはあるわ。
 でもね、あんまり考えたくは無いけど、もしもどうしても一緒には居られないって言われたら、そのときはすっぱり諦めて、別の幸せを追求することにするわ――時間はかかると思うけど。

 彼女は自分の決心について無言で息子に語り掛け、規則正しい寝息をたて始めた彼を、そっとベッドに寝かしつけた。
 彼を見つけられなければ、おそらく彼女は癒えない傷を負うのだろう。最初から、縋り付いてでも引き止めればよかったのではないかと。後悔に、自分を責めずにいられないだろう。かといって、行動を起さなければ、最も忌むべき闇に彼女は囚われる。どちらにしてもズタズタだ。
(でもね)
 あどけない寝顔を見下ろしながら、ちょっと鼻をすすって笑う。
 どんなに痛くても、幻だった方が良かったとは思わないのよ。あんたは、あいつが私の側で―たとえひと時でも―生きたって証だわ。彼が地上に刻んだ、足跡なのよ。大丈夫。傷を負ったままでも、私は生きられる。
 だから今は、とりあえず自分のやりたいようにやってみるわ。よしんばあんたを見つけられたとしても、あたしとあんたの本音が折り合いをつけられるかどうかは、わかんないけど。
 窓の外に、半分欠けた月が輝いている。さっきより明度が上がっているように思えるのは、たぶん気のせいなのだろう。彼女は腕を広げ、つんと清明な香りのする冷気を胸いっぱいに吸い込んだ。



(あいつ、あのときあそこにいたんだわ)
 ラボに引き返しながら彼女は考えた。窓の外に浮かんでいたのか、それともバルコニーの屋根の上にでもいたのかもしれない。
 彼はどんな気持ちであの歌を聞いただろう。自分としては、あのときの心持ちに結構共鳴するところがあるな、と思いながら歌っていたのだが。彼にとっても思うところがあったのに違いない。どの辺りから聞いていたのか定かではないが、二、三度繰り返しただけだった。それでも、印象に残った―しかもかなり正確に―ということなのだから。
 それにしても。
「結構、歌上手いのね」
 新しい発見だわ。まったく何年経っても、見えてなかったんだって部分が尽きなくて、新鮮でいいわね。
 ラボの休憩室にあるメーカーからコーヒーをカップに注ぎながら、彼女は小さく笑った。香ばしい匂いが部屋一杯に広がる。熱い液体を一口胃に流し込むと、それほど感じていなかったのだが、疲労した身体が覚醒してゆくようだった。
(そういや、あの後すぐだった)
 あの日の明け方、男は戻ってきたのだ。



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