声 (1)

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 低い歌声が、微かに耳に届く。
 この歌―
 よく知るその旋律に、彼女は薄暗い廊下に立ち尽くした。少しぐずる女児を胸に抱き、その小さな背中を鼓動に合わせて優しくたたきながら、男が静かに歌っている。


 共同研究に関して、王立アカデミーから提供依頼を受けているデータの提出期限が明朝に迫っており、今夜ブルマはどうしても仕事に専念する必要に迫られていた。
 本来なら一週間前に仕上がっていたはずのそれは、寝不足になった若い研究員の小さな不注意から、あるパートについては一からやり直しせざるを得なくなり、こんな間際になって未だ完成を見ない事態に陥ったのである。
「しょうがないわ。たまにあるのよ、こういうこと。今後気をつけて。予防できる対策も考えないとね」
 チームリーダーであり社のトップである彼女の一言で、その研究員の首は繋がった。が、時間は無い。彼女は結局、一番作業効率の高い自身をその仕事に従事させねばならなくなってしまった。
 だがこの大変なときに、彼女のマイペースな両親は今朝から学会出席を兼ねた旅行に出てしまっていた。息子も外出中である。夜になってそのことに気付いた彼女は、急過ぎていつものベビーシッターを呼び出すことにも失敗し(この気難しい長女は、それ以外のことごとくをその耳をつんざくような泣き声で追い出してしまうので、代替が効かなかった)、一歳を少し過ぎたばかりの子供を抱えて思案に暮れていたのだが、そこへ、この気難しい長女の父親が通り掛かったのだった。
 早口に事情を説明し、ということでお願いね、と一言いうが早いか、彼女は彼の手に娘を押し付けてラボに篭ってしまった。閉まり行く扉の向こうで抗議の声が響いたが、聞こえないふりを決め込む。
(大丈夫よ、あんたあの子に気に入られてるしね)
 どんなにむずがっていても、父親が抱き上げるとぴたりと泣き止むのだ。人前では決してそれをあからさまにはしないが、彼女は、彼が長女を目から入れて鼻から出しても痛くないというほど可愛がっているのを知っている。こうやって世話を任せるのは初めてだが、彼女はさほど心配してはいなかった。

 締め切り迫るとは言うものの、その時点で殆ど出来上がっていたデータはその後二時間程度で仕上がった。あとはコンピュータのチェックに掛けるだけだが、これが結構時間を食う。やれやれ、と椅子から立ち上がり、両腕を頭上高く持ち上げて思い切り体を伸ばす。
(どれ)
 しばらくは暇だし、二人きりの彼らを覗きにでも行こうか、とほくそ笑みながらラボを出た。おそらく二人はリビングに居る。長女は、家中でそこが一番好きだ。彼はそれを心得ている。
(大人しくしてるみたいだわね)
 昇降機の扉が開いても、泣き声は聞こえてこなかった。なんだつまんない、とベジータが聞いたら怒り出しそうな事を考えながら、足音を忍ばせてリビングに近づく。
(・・・歌?)
 入口近くに至ったときそれが耳に届いて、思わず立ち止まって耳をそばだてた。微かだが、たしかに歌声が流れてくる。
 あの人、歌ってるの?
 音の質から、どうやらテレビの類ではないらしい。だが信じられない。一緒に暮らして結構な年数になるが、彼の鼻歌さえ聞いた事がなかった。更に足音を忍ばせ、息を殺して、入口から注意深くその暗い部屋を覗く。
 室内をぼんやりと照らす街灯りの中、彼は娘を抱いていた。こころもちこちらに背中を向け、ソファに腰掛けて―歌っている。さっきまで泣いていたのだろう、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら父親の肩に頬を預け、長女は寝入り始めているようだった。
(これ―)
 低く響く旋律に、彼女は立ち尽くす。
 かつて幼い息子に歌って聞かせ、以降二度と口にしなかったそれは、彼女の脳裏にその頃の事を鮮やかに甦らせた。



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