艶―烏龍の憂鬱 (7)

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 女の、くすくす笑う声が聞こえる。目を開けて、彼は自分がダイニングの壁際にある小さなスクエア・ソファの上に横になっている事を知った。眼球だけ動かして声のする方を窺うと、数日前の朝と同じように、食事するベジータの横にブルマが陣取り、彼の邪魔をしている。
「あんたってホントに食欲旺盛だわよねえ」
 彼女はそう言って、彼のサラダボウルからフルーツトマトをひとつ取り、口に放り込んだ。その台詞がひどく淫靡な色を刷き、赤い果実を咀嚼する横顔がひどく猥らに見えるのは、烏龍の気のせいだけではないだろう。
「貴様、豚はいいのか」
 ベジータは彼女の言動に反応する様子も無く、食事を続けながらそう言った。
「ああ」
 彼女が振り返るより一瞬早く、烏龍は目を閉じることに成功した。
「寝不足なんでしょ。おとといゲームしてて徹夜だったみたいなのに、昨日の朝早くに連れ出されてたから」
 帰りも随分遅かったみたいだし。彼女の言葉に、烏龍の体中から冷や汗が噴き出す。
 そのままじっと目を閉じていると、食事を終えたのだろう、椅子から立ち上がる音がして、烏龍のすぐ傍を通り過ぎて行く男の靴音が響いた。彼は全身を緊張させ、その長い数秒に耐える。やがて靴音は出口のすぐ傍まで差し掛かった。
「ねえ」
 女が男に声を掛ける。靴音が止まり、男が彼女の呼び掛けを無視しなかったらしいことが知れた。
「今日は、あたしが行くわ。昨日みたいなのはもう無しよ」
 しばしの静寂。続いて、男が鼻を鳴らし、遠ざかって行く音が響いた。女がくす、と笑う。
「赤くなっちゃって」
 可愛いじゃない。呟く声の後に、さて、と女が立ち上がり、男と反対方向へ立ち去る軽やかな足音が鳴った。それは次第に小さくなり、やがて消える。辺りには、朝の気配だけが残った。
 冷てえよな。
 そりゃ確かに寝不足だけどよ。彼はスクエア・ソファから降りて、今度こそ水を飲むためにキッチンへ移動した。冷蔵庫から水のボトルを取り出し、蓋を開けながらダイニングへ戻る。
 結局、遅すぎたって訳か。いや、というより―
 いつ出来上がったのかは彼にも分からない。だが今思うと、ヤムチャが出てゆく前後には既に、という気がする。
 意外過ぎなんだよな。
 こういうことには敏感なはずの自分が気付かなかった理由など、それ以外に考えられない。そのあまりの意外性さえなければ、あの二人は、誰が見ても分かるだろうとすら思えた。
 そしてこうなってみると、奇妙に感じていた様々なことが、その事実を示していたということに気付く。
 彼女と喧嘩した様子も無いのに、突然出て行って、戻らなかったヤムチャ。その彼が拠点とした、高級過ぎる部屋。あれは、突然この場所に戻るのが難しい立場になった彼に、ブルマが用意したものなのだろう。最初で最後の、本当の別離だった訳だ。
 数日前の朝の、彼らのあの様子。二人の間に漂った、独特の色を帯びた空気。食い物に執着するサイヤ人の男が、自分のそれに手を出されても、さして気に留めなかった理由。
 そして何より、男が醸し出す、あの艶。
 それは女にだけもたらされる現象ではない、と知っていた。だが烏龍は、彼らの事に気付かなかったのだ。
 意外過ぎんだ。
 しかし、どうやら命は拾ったらしい。烏龍はほっと安堵の息を吐く。何かの気紛れなのか、彼をただの豚という以上には考えていないせいなのか。なんでもいい。とにかく、あの男は今のところ、彼を殺すつもりは無いようだった。
 でも、やりにくくなるよなあ。
 このままあの異星人が、ここに留まり続けるのだとしたら。彼も色々な面で、生活を変えざるを得なくなるだろう。ブルマに良からぬ振る舞いをすることが出来なくなるという以上に。この家を出ることも視野に入れておいた方が良いかもしれない。
 あーあ、面倒くせえ。
 直前に感じていた恐怖を次の瞬間には忘れることが出来るのは、彼が豚だからという訳ではないのだろう。


 その日の夕食には、珍しく全員が揃った。
「嬉しいわ。皆さん揃ってお食事なんて」
 夫人が嬉しそうに言う。博士も、そうだね、と妻に同意する。烏龍は、余計なのが一人混じってるけどな、と心の中で呟く。
 聞こえた筈はない。だがなんというタイミングだろう、ベジータが自分をぎろりと睨むのが彼には分かった。
 な、な、なんだよ。
 烏龍は身体を硬くして、目線を合わさないまま気付かない振りを決め込もうとした。だが身体の芯が震え、全身が小刻みにがたつくのを自覚しない訳にはいかなかった。ベジータはそうしてじっと彼を睨んでいたが、唐突にフォークを手に取り、側にあった肉の塊に、どす、と突き刺す。そのままそれを口元に運び、歯で一気に引き裂いた。
「まあ、ベジータちゃん、ダイナミックね」
 夫人が、常よりも更に迫力のある彼の様子に、感心したように漏らした。
「・・サイヤ式だ」
 珍しく、ベジータが夫人に言葉を返した。視線は烏龍に定めたままだったが。
「んまあ、野生的なのね。男らしいわ」
 夫人は、うっとりと彼を眺める。
「母さん、こいつは野生的なんじゃなくて野生動物なのよ」
 ブルマが呆れたように母に言った。
「下品な貴様に言われたくない」
 ベジータが、二口目を飲み込んで彼女に返す。
「あら、けなしてるんじゃないわよ」
 彼女はすまして言った。
「野生動物だけあって、あんた食べるの上手だもの」
 瞬間、ベジータの動きと呼吸が止まる。
「隅々まで、無駄なく、ね」
 彼は視線を、ぎこちなく烏龍から彼女に移して、そして逸らす。
「・・・馬鹿め」
 やっとのことで息を吐き出し、そう呟くと、彼は食事に戻った。ブルマは手元から一瞬だけ彼の方に視線を移し、にんまりと笑う。博士がその様子を見てふむ、と頷く。夫人は、仲良しさんね、とにこにこ微笑む。
「ねえ烏龍ちゃん・・あら・・・」
 同意を求められた烏龍は、白目を剥いてとっくに気絶している。くく、とベジータが小さく笑った。

 彼のメランコリックな生活は、当分続きそうである。


2005.8.15



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