艶―烏龍の憂鬱 (3)

 1  2  4  5  6  7  Gallery  Novels Menu  Back  Next

「あら烏龍、早いじゃない」
 内心でぶつぶつ悪態をついていたところへいきなり背後から声を掛けられ、烏龍は跳び上がった。
「び、びっくりするじゃねえか」
 あーあ。コーヒーカップの中に取り落としたパンケーキの無残な姿を見下ろし、彼は大仰に溜息を漏らす。
「好物なのに。最後の一枚だったんだぞ」
 声を掛けてきたブルマに恨めしそうにそう言うと、彼は駄目になってしまったそれらを始末しようと椅子から降りた。
「何言ってんのよ、ここにあるじゃないの、いっぱい」
 軽い調子で言うや、彼女はベジータの傍にある大皿から山盛りになったパンケーキの一枚を手に取った。見ていた烏龍が、ぎょっとしてその場に凍りつく。
「おい」
 ベジータはここで初めて顔を上げ、側に立つ彼女を軽く睨み上げた。
「まだ食ってる」
「いいでしょ、ひとつくらい」
「貴様のをやりゃいいだろ」
「分かったわよ、後であんたにあげりゃいいんでしょ、あたしのを」
 ブ、ブルマ、余計なことしないでくれ!オレが睨まれたらどうすんだよ!・・・・・あれ?
 一瞬、沈黙があり、彼らの視線が妙に絡みついたような気がした。が、それはほんの一瞬で、ベジータはふんと鼻を鳴らし、再び食事に戻る。
「ほら」
 彼女はテーブルの上に何枚か重ねられた白い取り皿の一枚に戦利品を乗せ、烏龍に差し出した。
「あ・・ああ、すまねえ」
 何だったんだ、今の間は。烏龍は少し首を傾げながら受け取り、テーブルに置くと、コーヒーを入れ直すためにキッチンに向かう。
 それにしてもブルマのやつ、怖くねえのかな。
 女だから、という理由でああいったふるまいが許されている訳ではあるまい。彼女のキャラクターに拠るところが大きいのだろう。烏龍は、カップの中身を始末して新しく入れ直しながら、今でもベジータの側を通ることさえ恐ろしいと感じる自分と引き比べて彼女がちょっと羨ましくなった。
 湯気の上がるカップを手に、ダイニングの入口からそっと様子を窺うと、彼女は男の隣に陣取り、彼の手元を覗き込んでいる。
「ね、どうやるの、それ」
 彼女は、片手でするりと卵の殻を剥く彼に、感心したように尋ねる。男は当然の如く彼女を無視して食事を続けている。あたしもやってみよう。言うと彼女は、彼の前にあるバスケットから最後の二つになった卵のうちの一つを手に取る。
「おい」
 彼は今度こそ抗議の声を上げた。
「いいじゃない、剥いたらあんたに返すからさ」
 彼女はそれを気に留める様子も無く、さっさと彼の真似をして卵を握る。
「あら・・結構硬いのね・・・ふんっ」
 彼女はそうして力任せに卵を握り、白身の部分を潰してしまった。
「あ・・あらら・・・」
「・・・・・」
「ご、ごめん、でも黄味は無事よ」
 ブルマは手の中の残骸から黄色の球をそっと取り出し、最後の一つの卵を飲み込みながら彼女を白い目で見ている男の口元に持って行った。
 げ。
 あんな馴れ馴れしいことして大丈夫なのか。烏龍は彼女の大胆な行動をはらはらしながら見守る。男は、少し上目遣いに黄味を差し出す女をしばらくじっと睨んでいたが、おもむろに自身の右手を持ち上げた。
 ああ、払い落とされるぞ。
 烏龍は思わず身を縮め、次に起こるであろう出来事に備える。また朝っぱらからこいつらの怒鳴り合いを聞かされるのか。耳の中にそれが響いてくる気がして、烏龍は既に疲れたような気分になった。と、男の右手が差し出された女の手首に伸び、それを掴む。逞しい手に捕えられ、白い手がひどく小さく、なよやかに撓(しな)う。
 う、うわ、何するつもりなんだ。あんなに食っといて卵一個くらいのことで怒んなよ。
 と烏龍が青ざめた次の瞬間、思いがけない事が起こった。男が女の手を自身の喉元まで引き寄せたかと思うと、黄味を、それを挟む女の指ごと口に含んだのである。
「あ」
 女の口から、驚きのせいなのか、少し上ずった小さな声が漏れるのが烏龍の耳に届いた。男はすぐに彼女を解放したが、彼女の指は一瞬遅れて彼の唇を離れる。
「ばか」
 彼女は、既に食事に戻っている男の腕を軽く抓った。男はうるさそうに少し腕を動かし、食事を続けている。
「あら、烏龍?」
 ブルマが、ダイニングの入口で立ち尽くす烏龍に気付いて声を掛けた。ちょっと、何ボーっと突っ立ってんの。その声で、彼はやっと我に返る。
「え、あ、ああ」
 彼らの方を見ないようにしながら、烏龍はせかせかと席に戻る。好物のパンケーキをよく味わいもせず口に捻じ込み、コーヒーで流し込むと、大急ぎで席を立ち、ダイニングを飛び出した。何慌ててんのかしら、変な奴ね。女の訝しげな声が彼の背を追いかけてくる。
「あ、ありゃ、どういうことなんだ」
 烏龍はやっとのことでエレベーターに辿り着き、それに乗り込んで自室のある階のボタンを押し、息を切らせながらつぶやいた。
 生まれてこのかた一度も女にふざけかかったことなどなさそうな男の、あの行動。
 でも、まさかなあ。あいつが。
 しかし、そのまさかならば。あの様子では、女の方も悪い気はしていないのだろう。そうでなければ男の振る舞いに怒り、大声を上げているはずだ。
 そして彼らの間に漂った、あの空気―。
 ・・・ヤムチャ、早く帰って来ねえとやばいんじゃねえの。



 1  2  4  5  6  7  Gallery  Novels Menu  Back  Next