艶―烏龍の憂鬱 (6)

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 どうやって部屋まで辿り着いたのか記憶が無い。気付くと、自室のクローゼットの中でがたがた震えていた。
 目、合ったよな。絶対。
 背凭れの向こうに現れた、男の顔。それがゆっくりと向きを変え、どこか赤い光を湛えたその瞳が、烏龍を捉えた。夢の中の出来事のような、あるいは幻を見たのだという気もする。だが、あの皮膚をえぐるような強い視線の感触が現実でないとは思えない。
 やべえよ。
 殺される。恐怖で歯の根が合わない。全身を冷たい、いやな汗が流れる。この地球をさえ、奪おうとした男だった。彼一人殺すくらい、絶対に何とも思わない。まして彼は、あの場を目撃してしまったのだ。
「幽霊の方がマシだった」
 遠のく意識の中、烏龍は自分の泣き声を聞いた。


「烏龍、烏龍」
 頬を数度軽く叩かれ、彼は薄く目を開いた。ふわりと、良い香りがする。
 何だ―天国か?
 しかし次第にはっきりする視界に、そうではないことが知れた。
「ああ、気がついたわ」
 ブルマが、彼を覗き込んでいる。いつもなら嬉しい深い胸の谷間も、今の彼には絶望的に映った。
 何てこった。
 まだ、現世だ。知らない間に死んでしまいたかった。これから改めて死の恐怖を味わわねばならないのだ。
「朝一の清掃ロボットが見つけて運んでくれたのよ。おかしな生命反応があるって。なんでクローゼットなんかで倒れてたのよ」
 どうやら今は陽が昇っていて、自分はリビングのソファの上にいるらしい。そこまで理解して、彼はがばっと起き上がった。
「な、なによ、びっくりした」
 彼女は、少し仰け反るようにして彼とぶつかるのを回避する。
 ここは―
 彼らが使った場所だ。だが、窓からは月光ではなく朝陽が差し込み、ソファの上には彼らではなく、自分が、いる。
 夢、だった―?
 頭が混乱する。だがそういうことにしておきたかった。喋ろうと口を開いて、喉が詰まったようになって声が出ないことに気付き、水を飲もうと起き上がり、ふらふらとキッチンの方へ移動する。だがダイニングの入口まで来て、彼はびくっと立ち止まった。
 ベジータがいる。
 テーブルの、いつもの席に腰を下ろし、いつものように朝食の山と格闘している。烏龍から彼の顔がはっきり見えているということは、彼の方でも烏龍の姿が目に入っているはずだ。だがベジータは、本当に気付いていないのかもしれないと思えるほど、見事に彼の存在を無視している―彼らが居合わせる朝に、いつもそうしているように。
 夢、か。
 烏龍は思わずその場に崩折れる。ちょっと、大丈夫なの、とブルマが駆け寄って来た。
「ほら」
 彼女は烏龍に手を差し伸べ、助け起こした。座ってなさい。彼女の命令に素直に従い、彼はテーブルの、自分の席におそるおそる腰掛ける。水でしょ、持ってきてあげるわよ。そう言ってブルマはキッチンに消えた。
 気まずい。
 自分の夢の内容が、目の前の男に知れる訳はあるまい。それは分かっていても、彼はいつにも増して顔を上げることが出来なかった。
 酔ってたのかな。
 一杯、いや二杯だったか、紹興酒を引っ掛けただけだったが、色々考えたりして疲れていたのかもしれない。昨日は仕事で変化を繰り返して、さして自覚はなかったが身体にも疲労が溜まっていたはずだ。しかも、寝不足だった。
 彼は静かに深呼吸する。少し頭がはっきりして来るような気がした。
「はい、水」
 ブルマがキッチンから戻り、彼の前にグラスに入った水を置く。
「・・これ、水道水だろ」
 烏龍は大きな鼻をひくひく動かし、口を尖らせた。
「オレ、水はエビアンしか飲まねえって決めてんだ」
「うるさいわねえ・・なに贅沢言ってんのよ」
 居候の癖に、と毒づきながら、それでもブルマはもう一度キッチンへと向かう。その後ろ姿を見送り、視線を戻し掛けて、烏龍は硬直した。
 ベジータが、食事の手を止めて彼の方を見ている。
 な・・なんだよ。
 射すくめられ、烏龍は動けなくなった。繋がってしまった視線を外そうとするが、痙攣でも起こしたように体がぴくりぴくりと動くだけで、目を逸らすことが出来ない。
 まさか―
 ベジータが、片頬を上げてにやりと笑う。烏龍は再び頭が真っ白になるのを自覚したが、ベジータはついと視線を手元に戻し、それきり彼の方を見ようともせず、食事に戻る。
「はい、これでいいんでしょ」
 今日だけよ。優しいあたしに感謝しなさい。彼女の声がどこか遠くのほうで響いている。ちょっと、ちょっと烏龍!遠のいて行く声を聞きながら、彼は再び、意識を手放した。



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