艶―烏龍の憂鬱 (5)

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 歩いてもたいした距離ではない。プーアルと夕食を共にした後、烏龍は帰路をゆっくりと散歩していた。
 寂しいんだろうなあ。
 名残惜しそうに彼を見送るプーアルの顔を思い浮かべ、烏龍は胸がちくりと痛むのを感じた。プーアルは一人でいるのが好きではないのだ。昔からそうだった。彼らが南部変身幼稚園で一緒だった時代から。
 また訪ねてやらねえとな。
 事情がわからない中で、一人カプセル・コーポを訪ねるのは気がひけるのだろう。遊びに来ればいいじゃないか。烏龍のその言葉に、プーアルは黙って目を伏せてしまった。
 早く戻らないと、色々ヤバイ雰囲気だぜ。
 とは、結局言えず仕舞いだった。
 言って、どうなるもんでもないんだしな。
 あの男がその気なら、ヤムチャが戻ったところでどうしようもないだろう。勝負は見えている。ブルマが拒絶するというなら、まだ可能性はあるかもしれないが―
 いや、相手が悪いな。
 女の拒絶など、あの男が意に介するとも思えない。第一、当のブルマのあの様子では、その僅かな可能性さえ―という気がする。
 どうなっちまうんだろうなあ、これから。
 人造人間に蹂躙されるかもしれない未来。カプセル・コーポの将来を左右する、次期トップの動向。その居候たる自分の行く末。
 同じ土俵の上で考えるべきことなのかという疑問は感じることなく、通り過ぎて行く二人連れの美人をほとんど無意識に目で追いながら、烏龍は、はあ、と重い溜息をついた。
 気付くと、彼がよく利用する映画館の前に差し掛かっていた。お気に入りの女優が主演しているB級映画が上映されている。時計を確認すると、ちょうどレイトショー開始の20分ほど前だった。
 観て行くか。なんか暗い気分になっちゃったしな。
 彼は入口のドアを潜ると、チケット・カウンターにいる受付嬢を見上げて言った。
「豚一枚」


 映画の後、馴染みの店で一杯引っ掛けて、烏龍は上機嫌でカプセル・コーポに辿り着いた。
 腕時計を見ると、午前一時前を指している。家人は皆寝静まっている時間だ。リビングやその周辺の灯りは全て消えている。門灯は夜中点いているのだが、月の美しい夜だったので却って邪魔に感じられた。
「それにしても、相変わらずイイ身体だったよな」
 彼はお気に入りの女優の大画面一杯のヌードを思い出して鼻の下を伸ばしながら、玄関を潜る。鼻歌を歌いながら階段を上り、二階の廊下をエレベーターに向かって歩いていた、そのとき。
 なんだ?
 リビングの方から、声がしたような気がする。耳を澄ますと、押し殺したような、すすり泣くような細い声が、途切れ途切れにだが確かに聞こえてくる。
 ゆ、幽霊!?
 烏龍はカプセル・コーポ七不思議の一つを思い出し、冷水を浴びたようにその場にぞっと凍りついた。
 午前一時きっかりに、一階から二階への階段の踊り場に現れるという、白い女。最初は背中を向けていて、細い声ですすり泣いているが、声を掛けると背中を向けたままかたかたと恐ろしい勢いで近付いてきて、間側まで来るとおもむろに振り返る。あるべき場所に眼球の無いその顔に恐怖の叫びを上げようものなら、その人間はその場で命を失うという。
 吹き抜けに掛かった大時計の、一時を示す二本の針が烏龍の目に映った。場所こそ違うが、これはまさしく―
 と、とにかく声を上げなきゃいいんだよな。
 もしも姿を見ても、決して声を上げないこと。走らないこと。そして決して、目を閉じないこと。助かるにはそれ以外方法は無いらしいよ。ブリーフ博士からそう聞かされた時は笑い飛ばしていた烏龍だったが、涙目になりながら両手で口を塞ぎ、エレベーターへの、今は気が遠くなるほど長く感じられる道程を思った。どうしても、リビングの前を通らざるを得ない。一階へ降りて別のエレベーターを使うことも出来るが、この状況で件の踊り場を通る勇気は更に無い。
 神様仏様孫悟空様・・どうかお守り下さい・・・!
 この地球の神は―そして今頃は平和な眠りを貪っているだろう彼の友人も―、祈ってもどうにもしてくれないのだということは解っていたが、そうせずにはいられなかった。一歩、また一歩、リビングへと近付く。リビングを通り過ぎたら、走らないように、でも精一杯の早足で、エレベーターまで走ろう、いや、歩こう。彼は身を縮め、リビングの入口を横切ろうとした。
 ひいっ。
 あやうく、声を上げそうになる。目の端で、白いものが揺れている。彼は思わずそちらに顔を向け、腰を抜かしそうになった。こちらに後ろを向けたソファの背凭れの向こうで、白くて細いものがゆらゆらと揺れている。しかし―
 あれ。
 目を凝らすと、それが月明かりに浮かび上がる足らしいということが見て取れた。すすり泣きは、その揺れに併せて漏れてくる。烏龍は、自分が無駄に恐怖を感じていたことを知った。
 ―なんだよ。
 バカバカしい。ヤムチャが帰って来てたんだな。場所くらい選んだらどうなんだ。出来立ての仲でもあるまいし。
 彼はさっきまでの恐怖を忘れ、リビングの入口からそっと顔を出して彼らの様子を覗き見た。ソファが小刻みに軋む音と、女の、絶え入りそうな、押し殺した声が合奏している。堪えきれずに漏らしたのだろう、短い悲鳴が響き、揺れていた足指が空を掴むようにもがき、妙な形に歪んだ。
 久しぶりだからか?なんか・・すげえな。
 背凭れの上部に、白い手指が現れる。必死でシートを掴もうとしているが、揺れに阻まれ、その爪がソファの白い皮革に傷をつけるばかりだった。烏龍は、光を照り返すその爪のなまめいた深い色合いに、思わず息をのむ。
 目が離せない。
 好き心からだけではない。何故だろう、それはこの上なく卑猥な場面であるはずなのに、芸術性の高い映像にでも出会ったような、奇妙な感動を彼にもたらした。
 女が、男に懇願する声が響く。白い足が一層高く掲げられ、揺れと軋みが激しくなった。女の鳴き声は一層高く、小刻みになり、そのうち切れ目が分からなくなる。やがて、何かで口が塞がれたのだろう、追いつめられた声は、くぐもって小さくなる。鼻腔から漏れるその響きは、女の限界が近いことを教える。
 白い足が硬直し、一際高いうめきが響く。足首に光る細いアンクレットが、しゃらりと鳴った―聞こえるはずの無いその音が、耳に届いたような―気がした。それに低い、小さく呻るような声が重なり、背凭れの向こうに、ゆっくりと―それは彼の目にスローモーションのように映った―逆立った髪の、男の横顔が現れる。
 月に吼える獣の様だ。
 烏龍は陶然と、それをみつめていた。



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