理由 (7)

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 リビングに戻ると、女をソファに横たえ、暖房を強くした。だが、女は早急に体温を取り戻さねばならないが、こんな間接的なやり方では埒が明かないことは分かっていた。彼は、経験の無いことに少し逡巡していたが、やがて両手に自身の気を集め、女の身体の上に翳し、ゆっくりと滑らせた。肩口から足元に向かって、触れないように、注意深く。一度やると雪に濡れていた着衣が乾き、二度、三度と繰り返すと、体温が戻ってきたようだった。
 もういいだろう。五度ほど繰り返したあと、女の顔に血色が戻ったことを確認し、彼はハンガーから女の上着を取り、戻った体温を確保するため、その体に被せた。 
 横たわった女の向いのソファの、さっきまでと同じ場所に腰を下ろす。割れたグラスや濡れた床、彼の血を吸ったリネン類は、清掃ロボットが既に掃除を済ませていたようで、もう痕跡が無かった。
 なんであんなものを着てるんだ。
 彼は目の前の女を観察する。彼女の体を覆う、白地に所々黒い斑の入った動物の毛皮で出来た上着は、彼にはひどく原始的なものに感じられた。それは、まだまだ後進的ではあるものの、この星の科学の粋を結集したようなこの場所には不似合いなことこの上ないように思われる。
 それに、あの靴だ。
 女の小さな足の先にかろうじて引っ掛かっているそれは、およそ歩くためのものとは思えなかった。踵があんなに細いのではバランスを取るのに気を取られて満足に前に進めないのではないか。こんなにまじまじと眺めたのは初めてだが、変化する不気味な髪型といい、時々身につける効率の悪そうな服といい、この女は彼にとって不可解そのものだった。
 尤も、彼がこれまで目にした女といえば、軍に所属し、日々戦いの中に身を置いているか、慰安のために集められ、飼われているか、あるいは殺戮の対象になり、命を拾うために必死になっているか、そのいずれかであった。呑気に平和を享受していると、無駄なことをやりたくなるのかもしれんな。彼は結論付けた。
 それにしても。彼は考える。何故俺は、この女を助けたんだ。
 いや、助けたことは別段不思議ではない。この女は自分にとっておそらく今一番有用な存在だ。だが何故、ここまでしてやる必要があったのだろう。
 圧死から救った。凍死から救った。そこまではわかる。わからないのは、自分が何故、この女を室内に運んだ時点で放置しなかったのか、だ。そうしたところで命に別状は無かっただろう。だが自分は、部屋を暖め、自らの熱を分け与え、体温が逃げないように処置を施した。そして今、何のためにこの暑い部屋に留まっているのか。
 ―わからん。
 彼は咽喉の渇きを覚え、立ち上がった。ダイニングを抜け、キッチンに移動して冷蔵庫から水のボトルを取り出し、封を切って煽った。高い室温で熱くなった身体に、冷えた水分が吸収されてゆく。渇きが癒えると、そのまま自分の部屋へ戻ろうかと思ったが、体がリビングの方を向いていたので、中身が半分ほどになったボトルを手に、何となくそのまま足を運んだ。
 横たわる女の側に立ち、見下ろす。
 女。貴様は、何なんだ―
 身じろぎしたのだろう、片腕がソファから落ちて、女の首から指先までが露わになっている。彼は、女がその白い上着の下に何も着けていないかのような錯覚を起こし、目を逸らした。やっぱり、下品だな。片手を伸ばし、上着を女の首元まで引き上げる。体温で凝った香りがその隙間から立ち昇り、彼の鼻腔に滑り込んだ。
 雪明りに、あらゆるものの白が浮かび上がっていた。
 室内に溢れる花の白。女を覆う毛皮の白。女の、肌の白。口元から流れ落ちた血が、乾いて黒く跡になっている。白い頬を汚すそれを、彼はひどく邪魔だと感じた。
 気付くと、触れていた。親指でなぞり、取り除く。うまく落ちない部分があった。彼はボトルの水を指にこぼして屈み、濡れた指先を女の頬に滑らせる。その水分に溶けた色を、指の背で拭い取る。なめらかな柔らかさが、彼を離さない。
 小さな唇が薄く開き、その隙間から女の内部へと続く闇が覗いている。軽く親指を押し当てると、やわらかく彼を押し返す。それに乗せられた紅い彩(いろどり)が、皮膚に移る。
 口元に疼きを感じた。
 ―喰いたい
 彼の唇が女のそれを、捉えた。


 
 俺は、何をした。

 自室の開いた窓辺に佇み、鋭い冷気に身体を晒しながら、彼は自問する。唇が、じんと痺れた。指先に女の彩が残っていた。女自身が、そこにあるように感じた。

 俺は―

 指先の紅(あか)を、きつく噛んだ。痛みが女の感触を消してゆく。雪が景色を白く染め始めていた。朝には、何もかもがこのしんとした白の下に埋もれるだろう。

 酔ってるんだ。

 理由なんざ、それで十分だ。
 彼は静かに窓を下ろした。

2005.5.4



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