理由 (5)

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 女は、大量の新しいタオルと救急手当用の道具一式が入った箱を手に、戻ってきた。血は既に雫となって床に滴り始めている。彼女はタオルで手の中の血溜りを吸い取ると、ピンセットで破片を取り除き、もう一度そっと血を拭った。
「あ、電気」
 女は、自分が僅かな街明りと雪の照り返す光だけの薄暗がりの中で作業していたことに気付き、テーブルにあったリモコンに手を伸ばす。が、彼が先に左手でそれをとりあげてしまった。
「ちょ、どうしたのよ、まだ破片が刺さってるかもしれないでしょ」
 返しなさい。女が、子供を叱るように言った。
「もう刺さってない」
 何故なのかはわからない。だが彼は、今この暗がりを失うのを惜しいと感じた。彼はリモコンを自分の背後に隠し、右の手に視線を落としながら、それを閉じたり開いたりして破片の有無を確かめた。女はそんな彼の様子を不思議そうに、困ったように眺めていたが、やがて諦めたのか手当ての続きを始めた。テーブルにあった大きなガラスの灰皿の中にタオルを敷いて、彼の右手の下にそれをあてがい、水のボトルの栓を切り、傷口を洗い流す。一旦、別のタオルで水分を取り、女は自身の指先で彼の手を丹念に撫でた。手の平、指、指の股。女の華奢な指が、彼の右手を隅々まで舐め回す―
「どう?違和感無い?」
 ああ。早く済ませろ。彼は、自分の掌に視線を落として低く言った。女の指が与える刺激に声が震えぬよう、細心の注意を払いながら。ホント、威張ってるわねえ。酔って力加減も分かんなくなったくせしてさ。少し笑いを含んで言い、沁みるわよと声を掛け、今度は消毒液で傷を洗い流した。
 その痛みに、彼は自分が息を詰めていたことに気付き、悟られないように静かに吐き出した。すぐそばにある女の身体を視界に入れないように努めながら、自分の尻に敷き込みそうになっていたリモコンを取り、テーブルに戻す。
「はい、終わったわよ。あんたのことだからすぐ治るだろうけど、塞がるまで無茶しちゃ駄目よ。それにしても、ちょっとビックリしたわ。あんたでもこんなのでケガしたりするのね」
 油断してたのかしらね。女が顔を上げて彼の顔を覗き込む。彼は目線を自分の手の外に逸らすべきではなかった。気付いたときには遅かった。視線が、絡んだ。気管を鷲掴みにされたような息苦しさが彼を襲う。
 不意に、女がソファの上を後ずさった。見開かれたその目には、彼には複雑すぎて分からない、何とも言えない色が浮かんでいる。
「ベジータ・・・あんた・・」
 それ以上は聞きたくない。何故か、強くそう感じた。彼は女と繋がってしまった視線を外そうとする。だが、出来なかった。顔が熱くなり、紅潮して行くのが自分でわかる。耳元で心臓の音がうるさく鳴り響いた。何だこれは。身体の制御が利かない。暗がりで常よりも深みを増した女の瞳の青が、彼を捕えていた。侵食される―
「なんで色が変わってるの?」
 女が眉を顰めて言った。色が変わってる―?
「あっ、戻っちゃったわ」
 彼女が彼の目を覗き込み、ちょっと残念そうに言う。
「どうなってんの、それ。どっか悪いの?そうか、そんなになってるから電気が眩しかったんでしょ」
 身体もなんとなく光ってるみたいに見えたけど。それを聞いて、彼は自分が、何故かはわからないが超化しかかっていたらしいことに初めて気付いた。
 そうだ、この女に言っておかなければならないのだった。彼は重要な事を思い出し、訳の分からない、息詰まるような苦しさから解放された。
「来い」
 こんな場合はやっぱりまず眼科かしら、などと言いながら考え込んでいる女の手を引き、リビングから引っ張り出す。どこ行くのよ、引っ張らないでという声高な抗議には耳を貸さず、彼はどんどん進み、女を屋外の重力室へ引き入れた。女は彼の意図を察したらしく、溜息をつく。
「また壊したの?」
 彼はふんと鼻を鳴らし、この部屋がヤワなだけだと言った。女は呆れたように彼を見たが、言い合いをしても無駄なことを知っているので、故障の具合について訊ねた。
「出入り口以外の電源がすべてダウンしてる」
 彼が答えると、女はああ、と言って、寒いのだろう、自分の剥き出しの肩を抱く。
「多分ショートしたのね。あんたの乱暴な使い方のせいで」
 いいわ、多分小一時間てとこでしょ。見たげるわ。ただし、着替えてからね。汚れちゃうし、風邪引いちゃうでしょ。言って開いている出入り口から出て行こうとする女の腕を軽く引き、再び室内に引き入れる。
「ちょっと!なんなのよ、あたし寒いのよ!」
「すぐに済む。メンテナンスする人間には見せておいた方が強度アップの参考になる」
 彼は、部屋の中心部へと移動しながら女に言った。
「・・?」
「俺がまだ完全にはコントロール出来てないということも考慮に入れておけ。そこで見ていろ」
 言い終わらないうちに、明りの無い重力室の中に、ぼんやりとした光源が浮かび上がる。それはたちまち明るさを増し、やがて小さな爆発のような衝撃がそれを中心に広がった。
 女は、暗い室内に急激に強い光源が発生したせいだろう、固く目を閉じ、爆風から自分を守るように腕を身体の前に翳していたが、やがてこわごわ瞼を開き、彼の姿を認めた。全身を金色の輝きに覆われたその姿を、彼女は無言のまま食い入るようにみつめていたが、やがてその瞳から大粒の涙を零した。
「・・・?何だ」
「ホントになれたんだ・・」
 女は彼に近づき、その両手で彼の顔に触れ、髪に触れた。その指が小刻みに震えている。真傍にある大きな瞳が、彼の放つ光を映して金色に揺れていた。ふふ、なんかピリピリするわ。微笑んで呟くその頬を、また涙が伝った。
「おい、なんで・・」
「やったわね」
「・・・・・」
「おめでとう、ベジータ・・・」
 女がそっと身体を寄せ、彼の首を抱いた。何故自分がそれを許したのかは分からない。何故女が泣いているのかも分からない。だが彼は、絡みついた柔らかな腕を振り解きたいとは思わなかった。彼の脳裏に、苦しみぬいた七ヶ月半が甦る。
 遠く近く、あらゆる場面にこの女が居たのだと気付く。怒り、泣き、喚き、そして動き続けた。彼の要求に、応えるために。
 この女も苦しんだのかもしれない。ふと、そう思った。何故そう感じるのかは解らなかった。
 黙って、目を閉じた。
 酔ってるんだ、お互いにな。今日のところは、それでいい。



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