理由 (3)

 1  2  4  5  6  7  Gallery  Novels Menu  Back  Next

 二杯目を注いだときだった。それが近づく気配を、彼は感じた。しばらくして近づいてきたフライヤーのエンジン音に、彼は自分の静かな時間が早くも終わってしまったことを悟った。玄関先に、フライヤーが着地する音がして、ハイヒールの立てる独特の靴音が響く。それは、その靴音の主には似つかわしくない、静かでゆっくりとしたものだった。普段とのその落差が、微かに興味をそそる。
 ブルマが、リビングの入口に現れた。いつもの露出の激しい服装とは違い、黒いロングドレスを纏っている。くるぶしまでふんわりと覆うスカートの襞が、一歩踏み出すたびにふわりふわりと揺れた。顔は、部屋の真ん中に陣取っている大きな木の枝に隠れてよく見えない。その白いデコルテが黒いドレスに切り取られ、暗い部屋の中、何故か眩しいほどに浮かび上がって見えた。手にしていた白い動物の毛皮で出来た長い上着を、入口近くのコートハンガーに掛け、女はゆっくりと近づいて来たが、枝に隠れた顔が現れると同時にぎょっとしたように足を止める。
「だ・・!れ・・・ベジータ・・?」
 ああ、びっくりした。暗がりに浮かび上がるシルエットを確認して、女は胸を撫で下ろした。本当に驚いた様子で、心臓の位置から手を離そうとしない。
「もう、脅かさないでよ!」
 どうしたの、こんな暗いとこで。言って彼女は彼の向いのソファの背に手を伸ばした。女の手から、小さなバッグがクッションの間に滑り落ちる。赤く塗られた爪が、僅かに届く街明りに照らされて、その艶を主張していた。彼はついとそこから視線を外す。
「久しぶりの静寂を楽しんでたんだ。貴様のいない間にな」
 まあ、御挨拶ね。一番騒がしいのはあんたじゃないの。彼女はいつもの軽口で応酬するが、どことなく沈んで見えた。
「貴様の男はどうしたんだ」
 一緒じゃなかったのか。彼は彼女の恋人の不在を口にした。
「やめて」
 女が、顔を背けて言った。静かだが、強い口調だった。いつもの、感情に任せたヒステリックな叫びではない。彼女が一人で戻ったことから、彼らの間にまたいつものように口論があったのだろうということは予想がついた。だがこの様子では、ただの口喧嘩ではなかったのかもしれない。彼にもそれが何となく想像出来た。少しの間、そうして俯いていたが、やがて女はダイニングへ消え、ブランデーのビンと氷の入ったグラス二つを持って戻り、彼の隣に腰を下ろした。彼は抗議しようとしたが、腕に女の指が触れ、言葉を引っ込める。ひんやりと冷たい、小さなそれが、彼の全身の動きを止めた。
「今日だけ、いえ、一杯だけでいいわ。付き合って」
 大きな瞳が覗き込んでくる。抵抗できない気がした。何故なのかは、分からなかった。
 傾けられたボトルから、琥珀色の液体が、氷を溶かしながらグラスに流れ込んでゆく。ボトルの口がグラスから離されると、それが合図であるかのように氷がグラスを鳴らした。
「はい」
 女が差し出したグラスを、結局黙って受け取る。
「メリークリスマス」
 女が自分のグラスを彼の手の中にあるそれに軽く当てながら、低く言った。腕の内側の、青みを帯びた白さが彼の目の端に映った。ツリー、家の中に立てたのね。こういうのも悪くないわ。彼女は一口含みながら満足そうに漏らし、彼に尋ねる。
「あんた、クリスマスイブに家にいたの、初めてなんじゃない?」
 それは正確ではなかった。彼がこの星に来てから、この日は三度目のイブである。彼は、重力室を手に入れるまでは、毎日のように屋外に出てトレーニングを繰り返していたが、夕食時には戻ることが多かった。以前の二度も、その頃にはここに戻っていたのだが、二度とも家人の方が出払っていたのだ。尤も家人が出払うことなどこの家では珍しくないので、別段気に留める程の出来事でもなかったし、その日が特別な日なのだという事にも彼は全く気付いていなかった。
「ホワイトクリスマスになるわね」
 女が窓の外を眺めながら呟いた。



 1  2  4  5  6  7  Gallery  Novels Menu  Back  Next