理由 (6)

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 女はしばらくそうやって彼を抱いていたが、気が済んだのか、腕を解いて身体を離すと、少し照れたように笑い、細い指で目元を拭った。
「で、そのせいで故障が増えたってわけね」
 濡れた頬を掌で軽く押さえながら、彼女は彼の行動に言葉を足した。
「ああ、根本的な強度不足だ。強化するように言っただろう。このままではちょっとした衝撃で、すぐ故障してしまう。普通に身体を動かすだけで精一杯だ」
 やって見せるから離れてろ。彼は、女が壁際に移動するのを待って、おもむろに右腕を上げる。
「ちょっと!あんた右はケガして」
「黙ってろ」
 彼は一旦それを胸元まで引き、一気に押し出した。衝撃が、部屋全体を揺るがせる。
「きゃあ!」
 女が、揺れに驚いて声を上げた。倒れないように傍の窓枠につかまる。
「今のを一とすると、十でショート、三十で亀裂、五十で崩壊だ」
「・・そうでしょうね」
「気合を入れただけだが、分かっただろう。通常の状態とは違う人間が使うと思ってメンテナンスしろ」
「というより、造り直しね。メンテじゃおっつかないわ」
「どっちでも構わん。そういうことだ」
 言って、彼は超化を解いた。再び室内が暗転する。明暗の落差が激しい。彼の黒いシルエットに、女が話し掛ける。
「いつからなの?」
 無機質な部屋に、彼女の声が軽く反響した。
「半月ほど前だ」
 ああ、あのときね。女は納得したように呟いた。半月程前、この部屋は彼によって使用不能の状態に陥ったのだ。内壁のほとんどすべてと外壁の一部が崩落し、再建に四日を要した。だが、壊すだけ壊してさっさとその場から姿を消した彼がここに戻ったのは、十日ほど後のことだった。三、四日って言っておいたのに、変だと思ったのよね。彼女は、彼が、目的達成の一番の近道となるこの部屋でのトレーニングを再開したくてじりじりしているはずだと思っていたので、それがとても意外だったのだと打ち明けた。
「言われてみりゃね。あんた戻ってきたとき、すごく雰囲気が変わってたもの」
 そこにいるだけで周囲の空気が帯電するように感じられるほどの、びりびりとした殺気。戻った時には、それが消えていた。いや、半壊した重力室から姿を現したときから。
「あんたあのとき、笑い出しそうなのを堪えてたのね。なんかを必死で抑えてる感じだったもの」
 傷らしい傷は無いみたいだけど、どっか痛むのかしらって、ちょっと心配したんだけど。女はくすくすと笑った。彼は鼻を鳴らす。
「さあな。そんなこといちいち憶えてはいない。だが、今はまだ思うままという訳にはいかん。意思に関わらず超化が解けてしまうことがあるしな」
 意思に関わらず超化し掛かったのは、さっきが初めてだがな。彼はその理由について考えた。アルコールが一因ではあるだろう。まだ慣れてないんだ。どっちにも。
 そのとき。
 天井から、小さな、彼の聴覚で以ってやっと捉える事が出来るという程度の、小さな亀裂音がした。次に何が起こるか、この部屋の主とも言える彼には手に取るように分かった。
 まずい。
 女は、もう少し詳細なデータが必要だけど、どうやって測定しようかしら、とぶつぶつ言い、寒そうに腕を摩りながら、部屋から出ようと出口に近づいているところだった。彼が、走れと声を掛けようとしたそのとき、がごんという音と共に、突然天井の三分の一ほどが落下してきた。
 通常の状態ならば、彼のいる位置から女の元へ飛び、そのままその体を抱え、落下物を潜り抜けて外へ飛び出すことは難しいことではなかった。だが、彼の体はこのときアルコールの影響下にあったためか、一瞬判断が遅れ、一瞬初動が遅れた。音のした方を振り仰いだ女の顔。見開かれた瞳。
 間に合わん。
 彼は、女を出口から屋外へ吹き飛ばした。落ちてきた建材の方を安全に粉砕するには時間が足りないという、咄嗟の判断だった。落下物の一部は、女が立っていたその場所に、女が姿を消すと同時に、地響きを立てて着地した。
 女は、部屋の出口から十メートル以上離れた位置に、うつ伏せで倒れていた。吹き飛ばすだけで精一杯だった。十分に力を加減出来たとは言い難い。
 くそ、やはりアルコールは鬼門だ。
 彼は、自分の完璧とは程遠い動きに腹を立てながら、女の元に降り立った。うつ伏せになった顔の辺りの雪の上に、点々と赤いものが散っているのが見える。少なくとも、死んではいない。女の微弱な気が彼の感覚にそう教える。彼は女の側に跪いた。首筋に指を当て、脈を確認する。少し弱く感じられたが、規則正しい拍動が彼の指先に伝わってきた。運良く、と言うべきだろう、中庭の真ん中にあった木の枝に抱きとめられ、そこから地面に滑り落ちたようだった。地面が直接にではなく、芝生が見えなくなる程度にだが積った雪が、少し優しく彼女を受け止めたことも幸いしたかもしれない。運が悪ければ、そのまま庭を囲んだ鉄柵に衝突していたかもしれないのだ。そうなれば、骨折や内臓破裂、下手をすれば死に至った可能性もある。
 ふ、と息を吐き出すと、彼は女を注意深く仰向けにした。下ろされた瞼はピクリとも動く気配が無い。軽装で気温の低い所に出た上に、雪に体温を奪われたのだろう、体がひどく冷たかった。口中を切ったのか、唇の端から血が滴り、頬を一筋汚す。
 放っておいたら凍死するだろうな。彼は溜息をつき、女を抱き上げた。頼りなく、軽かった。彼の裸の腕に、女の着衣と背中がひんやりと心地良かった。



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