醜聞―ある女官の回想録(7)

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 殿下はそうしてしばらく息を整えておられましたが、やがてばつの悪さを滲ませたお顔でわたくしを顧みられました。
『済まぬな、殴った』
『・・いいえ』
『血が出ている』
 と仰せになってわたくしの顔を覗き込まれます。素行のよろしくない部分はあっても、殿下の女性に対するこのようなおふるまいについては、それ以前も以降も耳にしたことがございません。
『二日・・』
『なに?』
『あと二日、早ければ』
 デイル様は本当に病を得てお亡くなりになられたのかもしれません。またそうでなくとも、陛下をお止めすることはできなかったかもしれません。ですがあともう少し殿下の出獄が早ければ、これほど人々の想いが擦れ違い、ねじれてしまうことは無かったかもしれません。
 殿下をお責めする、そのわたくしはどうだったというのでしょう。お妃様をお護りし、陛下に尽くすが女官の務め。わたくしはそれを果たすのみ、と思って参りましたが、それを隠れ蓑にしてはいなかったでしょうか。わたくしはお妃様でも陛下でも殿下でもなく、自分自身を守ったにすぎないのではないでしょうか。殿下のお気持ちをデイル様にお伝えすることすらしなかったわたくしに、殿下に対してあのような口をきく資格があるというのでしょうか。
『申し訳ございません』
 感情に走った我が身が本当に恥ずかしく情けなく、わたくしは耐えられずに俯きました。
『謝る必要はない、事実だ』
 頭上に、殿下のお声が穏やかに降ってまいります。お見上げすると、お顔からは先程までの激情が嘘のように拭い去られておりました。わたくしが少しは存じ上げている、あの殿下のお顔でございました。
『鼻血まみれで泣くな、後宮女官が』
 殿下はそう苦笑され、胸元から白い手布(しゅふ)を取り出してわたくしに手渡して下さり、そのまま一度も振り向かれることなく部屋を出られました。駆けつけ始めた人々の間を抜け、金色の夕陽の中を哀しいほどに堂々と、長身のお背が遠ざかってゆきます。いつしかそのお姿に向かって我知らず跪き、わたくしは深々と敬礼致しておりました。
 部屋の惨状を見て驚く人々の喧騒を背に、わたくしは頂いた手布を握り締めたまま、この血と埃の混ざった涙の味を忘れまいと固く誓いました。心が波立ちそうになったとき、それは今もわたくしを律し続けてくれています。


 怒りの矛先を誰かに向けなければ、御自身を殺しておしまいになりかねなかったのでございましょうか、それともわたくしどもの及び知らぬ何かを掴んでおられたのでしょうか、件のお妃様の一件について、王太子様は確信めいたものをお持ちの御様子でございました。それが故か、殿下は父王陛下の仰られることに全く従われなくなってしまい、この後しばらくの御行状は、以前にも増して甚だしく悪化していったのでございます。
『廃太子を』
 臣下や王族方の間から、そのような声も上がったほどでございました。ですが王陛下は決してそれらにはお耳をお貸しあそばされず、殿下が立ち直られるのを辛抱強くお待ちになられたのでございます。後の殿下のような、王陛下としての華やかな御業績はお持ちになられないかもしれません。ですが一人の父として、立派なお方であられたとわたくしはお見上げ申し上げております。
 殿下は、後に王陛下となられて多くの女性方を後宮にお抱えになられますが、その多くがこの時期に縁付かれた女性方でございます。
 道義的慣習的にですが、陛下に扶養義務が生じますので、普通はお妃様としてお迎えになられる女性は限られて参ります。ですが殿下はそうした部分で律儀でおいでなのか、あるいは荒廃しておられて却ってよい加減なお気持ちであられたのか、通常であれば御愛妾や御側女に留め置かれるほどの女性方にも、次々と妃の位をお与えになってしまわれたのでございました。正直に申し上げまして、今となってはその存在すら忘れておられるのではないか、という方々も大勢おられます。殿下の御長男君はこの時期にお生まれでございましたが、殿下は、今は亡きその生母様の御名を記憶しておいでではございませんでした。おそらくお顔も忘れておられることでございましょう。
 ともあれ、こうして殿下の御世に後宮はその規模を一挙に拡大し、遂には一千ともいわれる女性達の悲喜交々の舞台となってゆくのでございます。

 わたくしは女官長マジョラム、その現王陛下の後宮にて、総取締のお役目を仰せつかっております。


2009.5.17



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