醜聞―ある女官の回想録(6)

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 翌日の夕方、わたくしはあの月夜の一件以来初めて殿下とお会いすることになりました。
 その時わたくしは幾人もの同僚と共におりましたが、殿下が通り過ぎざまわたくしに目配せされたのです。しばし時を置いて件の壺部屋へ忍んで参りますと、あの時と同じく窓から射し入る夕陽の中に、果たして殿下がお背を向けて佇んでおられました。
『事実を話せ』
 あの一瞥でよく分かったと揶揄されることもなく、何の前置きも無く、わたくしの顔を御覧にすらならないまま、殿下は低いお声でそう仰いました。
『・・急な病を得られたのだと伺っております』
『伺っております、だと?』
 このとき、殿下は初めてわたくしを顧みられました。
『――』
 そのお顔に、わたくしは生まれて初めて魂を抉られるような思いを致しました。ひどく恐ろしい、鋭いお顔をなさっておられましたが、なんと悲痛な目をなさっておられたことでございましょうか。
『よいか、言い含められた通り答えてやり過ごそうなどと思うなよ。嘘を申せば殺す』
 それでは昨夜の話は本当なのか、とわたくしは目を閉じました。殿下がたいそうお過ごしになられ、近侍三名ばかりが災難に遭ったというのです。一人は今朝方死亡したと伝え聞いておりました。
『嘘ではございません、わたくしどもは左様に』
『奴らもそう申しておった。では病で良い、何の病だ?』
 殿下は恐ろしく低い声で仰せになり、斬りつけるような目でわたくしを御覧になられました。やつら、とはおそらく件の近侍らでございましょう。
『そこまでは漏れて参りませんでした。お妃様の私事でございますから』
 言い終わらぬうちに、わたくしは詰襟の胸ぐらを掴まれて宙吊りにされておりました。
『死ぬか?』
『でん・・』
『あのタイミングで病死だと?誰が信じる?さあ吐け。吐け!吐け!!』
 この方はもう、以前の殿下ではございません。清しく立派であられた昨日の殿下でもございません。宙吊りで締め上げられて揺さぶられ、身体を浮かせることもできないまま重力に翻弄されながら、わたくしは懸命に冷静を保とうとしました。ここで取り乱したりしたのでは、殿下の感情の爆発を誘って本当に命を落としてしまいかねません。
『俺はな、生まれ変わろうとしたのだ。父を納得させる良き後継になろうとしたのだ。その上で改めて、あの人を』
 鬱血したわたくしの顔を睨み、昂りに声震わせて仰いましたが、それきり殿下は言葉を詰まらせ、わたくしを揺さぶることをおやめになられました。皮膚を切り裂くような乾いた瞳が尚痛々しく感じられ、わたくしはもうそれ以上瞼を開けておられませんでした。
『毒を煽らされたと、聞いた』
 殿下は静かにわたくしをお離しになられ、傍の空いたベンチに腰を下ろされました。
『後宮の外でそういう話に仕立て上げられてしまったのでございましょう。陛下は決してデイル様をお責めになってはおられませんでした』
 わたくしは気をつけて言葉を選びながら申し上げました。王太子様にこれ以上傷のつくことをおそれ、陛下がお妃様に毒をお与えになられたのだ、と後宮の者はともかく外の人々は皆そう思い込んでしまったのです。殿下の仰られるごとくあのタイミングでございましたから、全く無理もございません。実際のところはどうであったか、わたくしも存じません。あるいは、と思わぬでもございませんでしたが、それにしては時期が妙ではございます。
『盗られたからだ』
 わたくしが考え考えして黙っておりますと、まるでわたくしの心を覗かれたごとく、殿下は再び火を吐き出すように仰られました。
『俺が寝盗ったと思っているのだ。だから父は、俺に地団駄踏ませるために時を選んだのさ』
 殿下とデイル様の間柄については、今もこのお話以上には存じ上げません。ですがお二人の実際がどうであったにせよ、以前の殿下であれば冷静な判断が下せたはずでございます。
『であれば、それはあなた様の招かれたことでございましょう』
 ばかげているという以上に、またなんという甘えた仰りようなのかと失望を感じました。用心を忘れたと申しますより、その失望が、わたくしの意地悪く危険な本音を引っ張り出してしまったのでございます。
『・・なんと申した』
『真実あのお方が陛下に死を賜られたのであるなら、それはあなたさまのおこないのせいです』
『黙れ』
 と殿下が低く仰った途端、部屋の中の器類がすべて粉々に弾け飛びました。窓の格子は砕け散り、頑丈な壁にはびしびしと亀裂が走ります。わたくしの衣類は、それらの尖った破片で一部分が裂けました。ですが、わたくしも一度火がついてしまうと後戻り出来ぬ性質でございました。
『いいえ、黙りませぬぞ。あなたさまの甘さがこの事態を招いたのです。それほど大切に思っておられたのであれば、なぜもっと御自重なさらなかったのです?投獄されるより先に、なぜ事態を悪化させるような行動を慎まれませなんだか!』
『・・・殺してやる』
『お好きになさるがよろしゅうございましょう。ですがたとえわたくしを黙らせても、事実は曲げられませぬぞ』
 と、次の瞬間わたくしは顔を掴まれ、背後の壁に叩きつけられておりました。わたくしは大きく半球形に窪んでゆく壁に、なんとも見苦しい様でめり込みました。気を失いもせずしっかり立っておられましたことが不思議でございます。叩きつける瞬間理性が戻り、殿下が力を緩めてくださったのかもしれません。
『・・わかっておるわ、そのようなこと』
 顔の前に落ちてくる砂礫を払いつつ壁から捩り出たわたくしに、殿下が背を向けて仰られました。そのお背も拳も、湯気になって見えそうな荒い息遣いの中で、小刻みに震えております。興奮の名残にすぎないのかもしれません、ですがわたくしはその御様子に、何と残酷なことを申し上げてしまったかとひどく後悔致しました。
 まことわたくしなどが申し上げるまでもなく、殿下は十分理解なさっておられたのでしょう。であるからこそお嘆きも深く、喪失感に掻き毟られるようなお気持ちでいらしたのでしょう。御自身を許せないと感じておいでだったのでございましょう。



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